若者のすべての歌詞

※フジファブリックのファン向けではなく、フジファブリックが一切分からない人が少し人気の意味が分かったっていうだけのメモです。

フジファブリックの「若者のすべて」、俺は別にファンではないし思い出もない。むしろ歌詞が良くわからなすぎてついていけない側だった。あるXの人が、「唯一わかる部分は「まいったな まいったな」のとこだけだな」と言ってたのを見て共感してめちゃくちゃ笑ったぐらいである。

今日たまたまフジファブリックの元メンバーが弁護士になったというヤフー記事を見て歌のことを思い出し、このよくわからない歌詞とちゃんと向き合うことにした(暇だった)。そして読んでみると案外ストーリー性があることが分かった。

真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

盆が終わり夏休みの終わりが近づく時期。夏の終わりの寂しさに感傷的になっている自分と対照的に、町はまだ(街より町)夏の楽しさを満喫しているように感じて一人取り残されている気持ちになっている。
一般的には夏が過ぎることは寂しいとされているが、俺は夏の暑さは好きではないし夏は楽しいことがあるという明るい考えが持てないので(思い出もない)、まぁきっとそうなんだろうなという感じである。

夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
「運命」なんて便利なもので ぼんやりさせて

夕方は寂しいものだ。楽しい一日が終わる。それは俺もわかる。チャイムを鳴っていることに気づく日もあれば、気づかない日もある。今日は寂寥感がチャイムを気づかせた。あるいはそれは楽しい一日の終わりに、楽しい夏の終わりが重なったのかもしれない。
運命、何がという感じだが、先に言ってしまえばこれは失恋ソングなので、別れたことは必然だ、運命で決まっていたんだ、と思い込もうとしたピントの合わない遠い目が視界をぼんやりとさせているということである。

最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな
ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

徐々に分からない歌詞がここでひとまずのピークとなる。恐らくその地域の花火祭りが終わったのだろう。それを彼は見たのである。最後ということは長岡のように複数日あるのだろう。だいぶでかい花火大会である。何を思い出すというのか。これはでかくてすごい花火のことを思い出すぜ、という意味ではなく、花火を通じた何か、つまり過去に花火を一緒に見た元の恋人自身のことを思い出してしまうということだろう。
そして問題の「ないかな ないよね」であるが、その次の言葉「きっとね いないよな」を先に読むと、元カノはこの花火大会に来ていないよね、と言いたいのだろう。とすると、「ないかな ないよね」はそんな妄想はありえないよね、であり、同時に「(い)ないかな (い)ないよね」と言葉が隠れているのである。そして会ったら言えなかったことを言いたい、そんな妄想を浮かべ続けている哀しい男の姿がそこにあるのだ。

世界の約束を知って
それなりになって また戻って

世界の約束ってなんだ、というと、この歌が夏を主軸にしていることから季節を表していることは明白である。この世界のルールは、季節が廻りまた何度も花を咲かせ花火を夜空に咲かせ葉に色を付け景色を白くするという決まり事だ。繰り返される季節ごとに人は思い出を持ち、何度も思い出せるということだ。
それなりになるというのは、年月が経てば失恋の傷も癒えてそれなりに平気になって、だけど夏が来ればまためそめそした感情に戻ってしまうということである。だいぶ尾を引いていることがわかる。

街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
途切れた夢の続きを とり戻したくなって

オフィスワーカーとし働いて夜遅くに帰宅を急ぐ姿を想像する。恐らくこれは夏休みに入ったワーカーがその日の深夜バスで花火大会のある実家に帰省するために帰路を急ぐ姿であろう。何か元カノと約束できたとかそういうことではない。毎年毎年、元カノと偶然会えるかもしれないと淡い期待を抱き実家に戻っているのである。かなり重症なのは間違いない。

すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

これは帰路を急ぎで転びました、すりむきました、痛いので走れないから歩きます。ではない。彼は心が重症なのだ。いつまでも失恋の渦の中で、うまくやれたかもしれない未来をイメージし続けているのだ。だけど歩き出す、つまり架空ではない目に映る未来に向かって歩こうとしているのである。

最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな
ないかな ないよな なんてね 思ってた
まいったな まいったな 話すことに迷うな

心は振り切ろうとしたはずなのだけど、一応今年の花火を見に来たのである。しかも結局花火を見て思い出しているのである。大丈夫か。しかしここでサビの後半が変わる「なんてね 思ってた」妄想が止まるのである。「まいったな まいったな 話すことに迷うな」なんと元カノに会えてしまったのだ。会ったら何を話そうと悶々としていながら、しかしいざ会えるとあふれ出す気持ちと裏腹に言葉は何も出てこない。嬉しさと恥ずかしさと混乱とが混ざって顔しか見れないものである。

最後の最後の花火が終わったら 僕らは変わるかな
同じ空を見上げているよ

「最後の」が2つついているのはメロディに合わせているからではない。この歌でひたすらに歌われる「最後の花火」というのは、一人で見る感傷に浸ってしまう今年の花火を指している。これが最後になるということ。つまり、自分一人で見る感傷的な花火はもう終わりだという宣言である。よりを戻したのだ。
そして俺は変わるぞと言いたいのだ。だけど未来は分からない。彼女にまた会えたことがそうであったように。だから語尾が「~かな」と少し不安げである。だけど同じ空は見れてる。きっと彼女も同じ気持ちなのだろう。ちなみに、夜空ではなく空であることから、花火大会のその日ではない後日であることが示唆されている(と思うこととする)。

と、昼を食べながら歌詞を見て思ったのでまとめることとした。まぁいたるところで皆同じような解釈を書いてるだろうけど。案外展開に意味があったんだなと。

この歌がよっぽど人気なのは、単純な失恋ソングではなく、聴く人によっていろんな解釈があるからだろうとは思う。失恋ではなく椎名林檎の「正しい街」のように故郷から出たバンドマンの歌かもしれない。帰り道を急ぐというのは働きながらまだ歌を作り続けている描写に思えなくもない。

好きか?と言われると、別にという感じである。俺は感傷的なことよりも前を向いて歩くことが好きだから。元気になれる歌が好きだ。都合の良いハッピーエンドもどうかなとは思う。けどそういう話もたまにはあっていいかもしれないなとも思っている。

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