戦国シスターズ落城記 1話
久しぶりに故郷へ来てみたけど、思ったほど変わってない。
お城はきれいになくなってるけど、山頂から見るこの景色はほとんど変わってない。
足元から麓へ伸びるこの尾根筋と谷筋。
でも、ここでの記憶は薄っすらぼんやりしている。
それもそのはず、ここを脱出したのは私がまだ3つか4つだった頃。
ここは、最強の山城といわれた北近江の小谷城。
今は、滋賀県という名前でその北部。城下には新しい道や家ができてるけど、農村だった雰囲気は変わってないな。なにより、遠くに見える淡海がそのまま!
今、琵琶湖なんていわれてるこの大きな海、450年前と変わってない。
はじめてここから淡海を見たのは、近くに住んでいた従兄弟の男の子と、カブトムシを取りに行ったときのこと。私は3歳かな…男の子は10歳。私たちのお城のすぐ上の、京極丸に住んでいた。おじいちゃんと、おばあちゃんと、伯母さんの家族で。
男の子にはとびっきり美人のお姉さんがいたな。それに比べて、男の子はいまひとつパッとしなかったけど、カブト虫取りに連れて行ってやる、って私を連れ出してくれたときのことだ。
「ねえ、カブトムシ、いないの?」
「今日はあかんみたいやな。あきらめて、帰ろか」
カブトムシが取れなくて、泣いてる私を男の子が慰めてくれて…私は遠くに広がる大きな水たまりを見て泣き止みました。そう、山の上から、淡海が見えていたのです。お陽さまの光を反射して輝くその湖面を、私はよく覚えています。
男の子は、まもなくひとりで淡海の反対側へ連れて行かれてしまった。
「男の子、どこへ行っちゃったの」
私は男の子のお姉さんに聞いた。
人質、ときいても幼い私にはよくわからなかった。
1 小谷の記憶
城があった場所に立つと、ここで死んでいった父のことを思い出す。
父は、北近江の国領主浅井長政。
今の言い方でいうと、戦国大名っていうらしい。だから私たちの生きた時代は、戦国時代。当時は天正とか文禄とか慶長って呼んでたけど、めんどうだからだいたいその頃の時期が戦国時代ってなった。今も令和とか平成とかいうらしい。
父は争いごとが苦手で、いつもニコニコして、母や私たちはもちろん、家臣たちにも優しかった。ちょっとぽっちゃりしてて、丸顔で、私は父に抱っこされるのが大好きだった。
「おまえの頬はごっつぅ気色ええさかい触らしてんかぁ」
父はいつもそういって私の頬に顔をなすり付けてきたけど、父ももち肌のうるおい肌だったから気色悪くはなかった。
母は、尾張の国からこの近江へ嫁いできた、織田信長の妹。政略結婚。男たちの論理。でもそのおかげで私はこの大好きな父と母の間に生まれることが出来た。母はつまりお市の方、顔が細長く目が切れていて、戦国随一の美貌などと持て囃されたくらいですから、本音ではもっと男前の大名へ嫁ぎたかったのかもしれませんが、もちろんそんなこと一言も漏らしたことはありません。
「さ、今日はどえりゃーうみゃあ飯だがね、あんたらもはよ食べよみゃあか」
美人なのに母はなかなか尾張弁が抜けず、いつまでも訛っていました。今は名古屋弁というようですが、母からしたら自分が訛ってるつもりはまったくなくて、「おみゃーらのほうこそ訛っとるがや」っていってました。私たちは関西弁という意識はなく、標準だと思っていました。関西弁という言い方自体が最近知ったことです。母の尾張弁は私たちには聞き取りにくく、私には再現しにくいので、ここからは現代語に翻訳してお送りします。
私には兄と姉がいました。兄は万福丸というちょっとヘンな名前。そして、姉は茶々といって、可愛らしいネーミング。美しくプライドの高い女性でした。
私の名前は、お初。姉の茶々に比べて、なんて古臭い名前……。名前のコンプレックスだけじゃない、美しさ、聡明さ、すべて姉は憧れのままでした。
私たちは、幼い頃母と別れ、その後再会してからも一緒に暮らしたのはほんの1年間だけなので、私にとって2つ年上の姉は母親への気持ちも重なっているのです。
姉は、母によく似ていました。似ているとなれば美しくて当たり前です。ところが次女の私は……父親似! いえ、父親だって、決してぶっさいくなわけではありません。丸顔で、おめめが細くて、包容力がありそうで、ちょっと童顔かな。よく言えば、愛嬌があるんです。かわいらしいんです。そんな父に似て、私は丸顔で、愛嬌はあるけど、美人とはいえないかな……でも3姉妹の中で父似は私だけ。そんなプライドがあるんです。
私が生まれた年に、父・長政は姻戚関係で強力な仲間だったはずの義兄である信長を裏切り、敵対しました。信長が越前の朝倉を討伐に行くときのことです。ここで挟み撃ちにして仕留めてしまえばよかったのですが、裏切りを知った信長はすぐさま逃亡しました。敦賀の、世にいう金ヶ崎撤退戦のことです。信長を逃してしまったため、烈火の如く怒り狂った信長は改めて兵を立て直し、徳川家康との連合軍VS父&朝倉連合軍はすぐ近くの姉川で合戦することになりました。
だからこの年に生まれた私はこの戦の終わりまで山頂付近から出ることはなかった。
私たち一族が住んでいた小谷山山頂の小谷城は高い場所にありましたし、簡単には攻め込まれませんでした。
「お初、ここは完全無敵な城なんやで。ここにおったら安全や」
一緒に住んでいたおじいちゃんは幼い私や姉によくそう言っていました。長政の父の久政おじいちゃんです。兄の万福丸はよくおじいちゃんのマッサージをさせられていました。
この頃、母のおなかに赤ちゃんができたことを知った私は、飛び上がって喜んだ覚えがあります。それまでは末っ子だった私に、弟か妹ができる! 毎日母のおなかを触って、
「いつ? まだ? いつ出てくるの」
待ちきれませんでした。
今考えると、この信長に攻められていた時期は父も母もたいへんな心労だったと思うのですが、私にも兄、姉にも優しく接してくれて、ほんとうに親とはいえ頭が下がる想いです。
しかし、私たちの山城・私たちの故郷はじわじわと攻め込まれました。信長の部将・羽柴秀吉、つまりのちの豊臣秀吉が諜報作戦で周りを固めていき、ついに私たちの山だけが孤立していったのです。
それでもじつに3年間、私たちはこの小谷城で籠城戦を続けたのです。3年間。きいたことがありません。それに、母はもともと敵方から送られてきたので、こうなった以上帰ってもいいし父は返してもいいのですが、ふたりは最期まで一緒にいたのです。母は、もう兄信長や自分の国より、父を愛していたのです。
今になればわかるのですが、この後信長は何度か裏切りに遭い、最後は明智十兵衛光秀の謀反で終わりますが、最初の本格的な裏切り、離反は父・浅井長政です。しかももっとも信長を苦しめ、もっとも長く抵抗しました。単に意地だけで山城に籠もったのではありません。天台宗比叡山延暦寺の覚如や浄土真宗大阪石山本願寺の顕如、甲斐の武田信玄などと書状を送りあい各地で叛乱を起こさせて信長軍を分散させ鞆の浦に流された公方足利将軍義昭を仲介して講和をもちかけたり、信長の勢いを凌ぐ外交戦を展開していたのです。
信長は早くから鉄砲を使っていましたが、鉄砲の生産拠点であった国友はこの北近江の国友村で、小谷城からも近い領内にありましたから、生活の保障をして摂津だか河内だかの卸商人への出荷を止めさせました。
しかし、姉川での合戦から時間をかけて、私たちのお城は包囲されていきました。
城内がバタバタするなか、母は赤ちゃんを産みました。小さくて可愛らしい、私の妹、お江が誕生したのです。
姉と私は赤ちゃんにへばりついて、匂いを嗅いだり、抱っこしたり、ちっちゃいお手々を握ったり。
でも、その周りをみんな血相を変えて走り回っていたのを覚えています。羽柴秀吉は山の裏側に秘かに足場を建てて、崖を登って侵入を始めたのです。
お城の少し上にあった京極丸で、ついにおじいちゃんは自ら命を絶ちました。私たちは、父に呼ばれて天守へ集まりました。
「茶々、お初たちはここから逃げんねんぞ。ただな、万福丸だけは別のルートや」
父はそういって、私たちをひとりずつ抱きしめました。
「父上、母上はどないしはるんですか」
姉がききました。
「わたしたちはここへ残ります。茶々、お江を頼みますよ」
母はそういって、やはりひとりずつ抱きしめました。
まだ小さかった私には、事態がよく飲み込めず、抱きしめられてもただぼーっと立ち尽くすばかりでした。しかし姉はなんとなく理解していて、母に抱きついたまま泣きじゃくって離れようとしませんでした。
姉は必死でした。侍女がお江を背中にくくり付け、脱出の準備が整っても、まだ母に泣きついていました。
父が、そっと姉の肩に手を置いてしゃべりはじめました。
「ええか。おまえたちはこんなとこで死んだらあかん。生きるんや。生きとったらええこともあるさかいな。万福丸、おまえは優しい子や。父さんの仇を討とうなんて考えんでええ。こんな戦ばかりの世の中は続くわけないさかい、続けたらあかんねん。じき誰かが終わらせてくれるはずや、おまえは平和になったこの国で自由に生きんねんぞ。茶々、おまえは母さんに似てきれいやし賢いけど気ぃ強て意地っ張りなとこあるな、ええ旦那拾ろておまえがうまいこと操ったら幸せな夫婦になるわけや。これからは女子が国を動かすねんぞ、そうならなあかん、な、お初、おまえはわしに似とる。かいらしいて愛嬌あんねん、お肌つるつるやしな、その人懐っこさなかなかやで、戦さえなかったらうまいこと生きられる。みんな、ありがとう。わしはこんなかわいい子供たちに恵まれて、楽しかったで。ほんまにありがとう。絶対生きてくれ!」
「こらっ! お茶々」
母が、力ずくで姉を引き剥がしました。
「父上のいうことがわからんか」
あのやさしい母が、初めて見る怖ろしい般若のような顔で姉を叱りました。
姉は泣きながら、うなづきました。うん、うん、と。
「わかってくれるね。おまえはお姉ちゃん。ふたりの妹を見てあげて、しっかり生きるのよ。あきらめちゃ、だめよ」
母はいつもの優しい母に戻って、再び姉を抱き寄せました。
「さあ、もう行きなさい」
私たちは、産まれたばかりのお江を背負った侍女に連れられて城外へ出ました。
そして兄とも別れ、裏から秘かに山を降り、脱出しました。
別ルートで逃亡した兄万福丸が捕らえられ磔にされ槍突きで公開処刑されたのを知ったのはずいぶん後になってからでした。
2 脱出
私の記憶には、姉に手を引かれて急な山道を下るときの、両側の草木が残っています。ざざっ、ざざっという、駆けていく時の草木たちの音。お江を背負った侍女も、姉も私も、ひとことも喋らずにひたすら山道を下りて行くだけでした。途中には岩場もありましたし、池もありました。池の横の神社の境内に入ると、侍女は
「さあ、姫様たちはこれにお着替えや」
拝殿に隠してあった粗末な衣を出しました。農民が着るような、もんぺみたいな野良着です。
「いやや。なんでうちがこんなん着なあかんの」
姉が抵抗しました。無理もありません。きらきらでフリフリの衣装しか着たことのない、寝るときでさえこれよりはましな格好なのです。
「きれいなお衣では、目立ってしもてすぐ捕まりますねんで」
姉は渋々着替え、私もそれに倣いました。
侍女のいうことを、姉は割りと素直に聞きました。盛秀という男みたいな名前で歳をとった侍女でしたが、姉や私にとっては世話、教育係も兼ねた祖母のような感覚だったのです。
着替えたそれぞれを見て、私たちは可笑しくてお互いに指を差しながら笑いました。
「なんなんその格好!」
「アホ丸出しや」
この時の神社は、まだ同じ場所にあり、今の滋賀県長浜市高畑町にある波久奴(はくと)神社という名前になっています。
そんなにのんびりもしていられません。追っ手が来る前に私たちは川べりの道を急ぎ南へ向かいます。私は、一度だけ振り向いて、私たちのお城を見上げました。城は見えませんでしたが、山頂付近からはひとすじの煙が空に向かって高く上がっていました。
どのくらい歩いたのか、大きな茅葺き屋根が見えてきました。お寺のようです。建物の前で、法衣を身に着けた身体の大きな人が待っていました。
「よう来たな」
頭巾でよく見えませんが、女性の声です。
姉が駆け出して、抱きついていきました。一度会ったことがあるようでした。
実才庵という庵寺で、尼僧は父長政の姉、つまり私たちの伯母にあたる、昌安見久尼でした。
「えらい目に遭うたな、こんな小さい子ぉら、かわいそうに」
伯母さんは私がそれまでに見た人間の中でいちばん大きく、背丈は5尺8寸、今で言うと175センチくらい、体重は28貫といいますから今で言うと105キロです。父も大きいほうでしたが比べ物にならないサイズ感です。
しばらくして秀吉の手の捜索隊がやってきて、
「ここは浅井方の仏堂やな、匿っているなら素直に差し出すのが身の為ぞ」
と脅しました。しかし応対した伯母さんはすでに2反の生地で作った大法衣の袖の下に私たち3姉妹をすっぽり包み込んで隠していました。
捜索隊は土足で本堂や庫裏へ上がり込んであっちだこっちだと執拗に探し回り、いないとわかると去っていきました。私はお江の寝顔を見ながら姉とくすくす笑っていました。
まったく、戦というのが槍や鉄砲を使わず、素手の取っ組み合いであったなら、この伯母さんひとりで信長だろうが秀吉だろうがこてんぱんにやっつけちゃうのにな、と思ったものです。伯父の信長には会ったことはありませんが、のちに会う秀吉みたいなちんちくりんのお猿なんてこの伯母さんなら楽勝、片手で処分しちゃったことでしょう。
この庵寺の山号は「小谷山」読みはしょうこくざん、今も同じ場所の集落内に曹洞宗・実宰院としてあります。
ところで私たちを無事にここへ届けた侍女のことですが、私たちを届け次第、ただちに山へ戻っていきました。ずっと浅井に仕え、長年母と私たちの世話係りをしてくれた侍女・盛秀。私たちがあの野良着に着替えた神社の近くの田んぼで自害していました。盛秀は、役目を終え、主人の最後を見届けてのことなのか、あるいは追っ手に見つかってなのか、そのなんでもない田んぼでひっそりと一生を終えました。私たちは、その場所に墓石を建て、毎年9/1の命日には父長政とともに手を合わせました。
墓石は400年以上経った今も残されており、地元の方々が手入れをされています。