戦国シスターズ落城記 3話

秀吉の城ができ、支配が安定し始めて、私たちはようやく外へ出られるようになりました。伯母さんのいいつけで、ふたりともあの野良着を着て、近くの田んぼで働きました。農民のお手伝いです。私たちはやったことも見たこともない田植えや草取りや収穫を全部やりました。レンコンや大根も、時には腰まで水に浸かって残らず収穫して、川で洗って、木箱に詰めて。こんなに過酷な労働だとは想像したこともありませんでした。もちろん、食べるものも農民と同じ、一汁一菜でごくたまに焼いた川魚。集落の子供たちともかくれんぼや石投げをしてよく遊びました。なかでも川でよく赤い魚を掬って遊んだものでした。これは産卵期のハリヨという小さな川魚で、川が赤くなるほどたくさん泳いでいましたが、今は一匹もいなくなったようです。
 このころ、伯母さんがはじめた「お神酒行事」に毎月参加させられました。これは毎月はじめに村を流れる川をさらって集落にある神社へお酒と肴を供えるもので、全身泥だらけになって川底をさらうのがしんどくて泣いていました。
 とにかく伯母さんは私たちを特別扱いしないしするわけにいかなかったのです。すべてが民衆と同じ生活が続きました。
 
 雨の日はお勉強です。メインは仏教、お経です。生老病死、諸行無常、諸法無我、一切行苦、縁起、輪廻、解脱。
 私が特に共感したのは、諸行無常、仏教の無常観です。この世ははかなく、常に移り変わり、永遠なものなどなにもない。父や、母や、私の故郷小谷城も、はかなく消えてしまいました。そしてこの先の未来も、やがて過去のものとなっていくんだろうな。
 伯母さんは算盤もできて、私たちは習いました。姉はどちらかというと算盤が得意で、私は写経が得意でした。
 夜になると、私はよく伯母さんに弥勒様や仏様のお話をせがみました。仏様には、男も女もない。弥勒様だって、女ではない。男でもないけど。
「うちもな、僧侶やさかい、男でも女でもないねんでほんまはな」
 伯母さんはそういいました。
「伯母さんは、女の人やないの」
「女やけど、世俗の女いう役目はとっくに捨ててんねん」
「じゃ、伯母さんは嫁がへんの」
「伯母さんはな、仏様に嫁いだんやで」
「ほな、うちは弥勒様に嫁ぐわ。ええやろ。弥勒様も男でも女でもないさかい、ええやろ」
「そやな」

 こうしてお江が立ち歩きするようになったころ、いつものお神酒行事で泥さらいをしているとき、たまたま近くで話している村人の会話がきこえてきました。
「尾張へ戻らはった小谷の方様がな、清洲から守山いうとこへ移らはってんて」
 小谷の方。一般の人は、お市の方と直接呼ばず場所で表します。
 つまり、母のことです。母が、尾張へ戻っている。
 というか、生きている?  母が生きてる?
 私は気が動転して、
「母上、生きてる」
と姉に訴えました。
「は?」
「村の大人がいうててん」
「気のせえやろ」
「ううん、うち確かにこの耳で」
「そんなはず、ないやろ。初かて見たやろあの時お城で父上と一緒に…もうその話はええやんか」 
 しかし私はたしかに村人がそう言ったのをききました。
 母が生きているのではないか。
 迷わず私は伯母さんにぶつけました。
「別に隠してたわけやないねんけどな」
 伯母さんはあっさり認めました。
「生きてるいうたら、会いたなってまうやろ」
「もしかして、父上も」
 姉が興奮していいました。私もそれをきいてはっと期待が高まりました。母が生きてるなら、ありえることです。
「なんぼなんでも、弟はあそこで果ててるやん。心配せんでええ。あんたらも毎日供養したさかい、ちゃんと成仏でけてる」
 伯母さんの説明はこうでした。
 母は私たちが脱出した後もなお父と共に天守に留まり、自刃した父を見届けましたが、火を放つ寸前に踏み込んできた秀吉方に保護され連れ出されていたのです。敵方に嫁いだとはいえ母は織田信長の妹。ただ捕まった万福丸は母の子ではないから殺された。兄は母が来る前に生まれていて、幼い私にも母が違うことはうすうす分かってはいました。
 しかし、それなら私たち3姉妹も、捕まっても殺されることはないのではないか。
 賢い姉は伯母さんにききました。
「そやな、でもな、これは弟の意志なんや、いやあんたらの母の希望でもあんねん」
 伯母さんは、なぜあえて別れるようにしたのか、私たちにも分かるように丁寧に説明しました。このあたりの事情はのちに母と再会して再度聞かされることになるのですが、ともかく納得して私も姉もこの時は母が生きているということで胸がいっぱいになっていました。
「大丈夫や。時期がくれば、また会えるで。そのときのために、今しっかり生きんねん」

 ところで今のドラマや小説では、私たち姉妹も母と一緒に保護され、信長の庇護の下清洲城で育てられた……とされているようですが、じつは、私たちは別で育てられていたのです。

 それから、私たちは時々母を思い出しながら、この湖北の地で育っていきました。
冬は雪が積もります。このあたりは伊吹山の影響で積雪が多く、私たちは集落の子供たちと雪合戦したり雪だるまや”かまくら”を作るなど今の子供たちと変わらない遊び方をしていました。自分たちが浅井の姉妹であるということは伯母さんからもよく言われていましたから絶対に漏らしませんでした。お江が大きくなってくると、一日かけて淡海へ、琵琶湖ですね、おにぎり持って歩いていって、湖畔で食べて戻ってくるという、今で言う遠足です。お江が途中で歩けなくなって、よく姉がおんぶして帰りました。
 一度、伯母さんに頼んで観音様めぐりもしました。このあたりには観音の里といわれるくらい上出来な観音様が揃っているのです。
 十一面観音菩薩、千手観音、准低(てい、は月偏)観音など、行く寺すべてに美しい観音様が私たちを迎えてくれるという夢のような時間でした。中でも現在の高月町にある2体の十一面観音様は格別でした。5尺くらいの、人間と等身大ほどあり、やはり金箔で、実才庵の聖観世音さまと姿は似ていますがやや細身でお顔が小さく、子供でさえ見てはいけない気にさせるほどの妖艶さ。姉も私も立ち尽くして、美しさに気絶するかと思うほどでした。
 お江はお弁当のおむすびが楽しみなだけで付いてきてるようなものでしたが、どういうわけか石道という小さい集落の十一面観音さんの前でだけ固まり、瞬きもせずじーっと眺め続けていました。
「どうしたん、お江」
「わからへんけど、動かれへん」
 この観音様は子授け観音とも言われ、子授けや安産に数々の伝説を持つ観音様でした。
 それにしても、丸一日かけての、観音巡り。
 今で言うと、ディズニーランドとシーへの日帰り旅行といったところでしょうか。

 こんなことなら、都の弥勒菩薩様の実物を目の前にしたらいったいどうなってしまうのか。
「ねえ伯母さん、うち都の弥勒様に会いたいねんけど」
 ついに言ってしまいました。
「そやなあ、都となるとしんどいな、こないして観音めぐりすんのとわけがちゃうさかいな」
 たしかに、行き帰りだけでも何日もかかりますし、危険も伴う。
「もうちょっと大きくならんとな、お初」
 これは今で言えば、本場のディズニーへ行くか、ヨーロッパ一周旅行かぐらいの感覚でしょうか。
 私は姉の作った都への妄想旅の物語で我慢するしかありませんでした。


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