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「幽囚の心得」第10章               大衆を忌避せよ(4)

 現代は以上見たように厚顔無恥な大衆が増上慢に無知を晒しながら跳梁跋扈しているおぞましい時代なのだ。

 前章で私は承認欲求を排せよと述べた。我々受刑者に完全なる自己否定を求める世人と自己肯定に至る過酷な道を歩まんとする我々とは、互いに相容れぬ存在であることを正しく認識することの必要を説いた。
 そして更に本章で、そもそも承認欲求の相手方たる大衆は大した人生を送っていない俗輩であり、恃むべき対象たり得ないことを弁じた。

 はっきり言おう。大衆人に追従することで我々の人間再生が叶うことは絶対にあり得ない。大衆の持する価値の箱の中身は空っぽである。そこに期待を寄せても空疎の感が増幅されるのみであろう。人生の真理はそこにはないのだ。大衆人はむしろそうした根本義の思索から逃避した懶惰で臆病な者たちに他ならないのである。

 我々受刑者に最も必要な徳目は「勇」ではないかと思惟する。
 我々はオルテガの言うところの「少数者」たらねばならない。大衆の後塵を拝する大衆の劣位にある「少数者」ではなく、自分自身に特殊な価値を認めようと努める求道者としての「少数者」である。
 前章で述べたが、それは何らの精進もせずに、他者に対して自身を「特別な存在」として承認して欲しいとただ願望する愚物たれと言っているのではないことは勿論である。
 また反対に、選ばれし者として「我こそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間」を指すものでもない。
 ここで「少数者」とは、「たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人」のことである。

 我々は如何なる困難が待ち受けていたとしても、「自分の人生に最大の要求を課す」、勇なる士人でなければならない。我々の目指すものは「高貴なる生」である。自らの生は自らの存在を超越した価値に奉仕するものである、奉仕するものでなければならないと自覚しよう。
 人間の魂、精神は存外強靭なるものだ。己れに課す要求と義務に何らの制限も設けてはならない。最も忌むべきは臆病者である。
 尤も、「高貴なる生」とは尊大なる者によるものではないことには注意を要する。自らが自らに課す要求と義務の度合いが高ければ高いほど、人は自らの不全であることの現実に直面し続ける。それでもなお、完全を目指し続ける不撓不屈の精神こそ「高貴なる生」たりうる必要条件である。そのような苦行には耐え切れぬと弱音を吐く意気地無しは、凡俗たる大衆の下僕として慎ましく、そして卑屈さと同居しながら生きたらよかろう。

 我々が自らの生を全うするためには、大衆を忌避しなければならない。大衆の支配する「社会」に帰還することは我々受刑者の再生に繋がるものではないという峻厳なる現実を等閑視してはならない。我々は自らが帰るべき「社会」の在り方を真摯に探究する必要がある。如何なる「社会」が人間の生を誠のものたらしむるものか、その「社会」の構築に自身が如何なる役割を果たし得るか、これを深慮し続けるのだ。真の意味の「社会復帰」とはそのようなものであることを肝に銘じるべきである。

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