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「幽囚の心得」                                        第3章 「固有性」を強める(3)

 ただ一方で、この濁世にあって多くの世人の様相に目を移すと、人生の核心めいた価値など見出し得ない迷走する状況下にあって、正面から自己修養に向かうのでもなく、ただ浮き草のように浮遊し周囲を見渡しながら人生をそんなものだと諦念することがさも理性的な態度のように自らを騙し偽り納得させ、凡庸であることを受け入れることと引換えに安穏に浸る輩が極めて多いように見受けられる。
 尤も、彼らの中でも階層があり上位にある者は、与えられた制度の中でかかるポジションを得たことにおいて満足しようと努め、日々平静を装いながら自らが幸福であると唱え続けている。しかし、いずれもその空虚な人生の本質に何ら変わることはないのだ。彼らは同じ塀で囲われた閉塞した世界で過ごす住人であることに変わりない。
 
 心の空虚は頓に「自分探し」などという衝動として現れ右往左往が始まるのもまた常である。しかし、そのような生き方しかしてきていない俗人には、創っても来なかった“本当の自分”などどこにも存在しない。
 この点で言うならば、世人は認め難いであろうが、受刑者の多くの心中には世人にはない、今を否定する熱が潜在しているようにも思われるのだ。彼ら受刑者はそれを少なくとも誤魔化してはいない。尤も、その熱は正しい形で顕在することは少ない。その振舞いを見ると、彼ら自身、自らの内に潜在する熱の存在に気が付いてはいないように思う。彼らは社会の以前と同じ場所に以前よりもっと劣後する立場で帰り、世人の十分な価値を伴わぬ秩序らしきものの中でその最後尾に付くよう促されていく。そして、鬱屈した精神の下、内なる熱の再燃として再犯に走る。彼らはこれは実は分かっているのだ。その衝動が彼らの心の充足を齎すことはない。そうした堂々巡りは益々彼らの社会における序列を下げ、彼らを卑屈にさせていく。

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