小説「獄中の元弁護士」(4) 「罪人に自己否定を促がす装置」
警察署に着き、手錠のままに連れられ、夜中にも関らず未だ刑事たちの居残る執務室の端を通る。古びたスチール製の収納庫で便宜的に区切られた通路の先にある奥の部屋に通された。私は刑事たちの興味本位の視線に晒されながら何だか自分の姿が滑稽に思えて自然と笑みを浮かべた。相変わらず下を向くことはしない。
部屋へ私を先導したのは中林という眼光鋭い小太りの捜査官である。こんな仕事をしているとこうした何かを疑う眼つきになってしまうわけだ。私はある意味、プロであるということだなと得心し、また一人笑みを浮かべる。彼がやたらに私の身体の健康状態を気遣う。健康保険証の記録から通院の事実も把握しているということだな。5年以上前に重度の急性膵炎で入院してから定期的に経過観察のため通院していただけで、数値はよいわけではないものの今では特に具体的な症状があるわけではない。ただ弁護士会の懲戒手続に晒される中でずっと腹は緩かった。知らず知らずのうちに精神的な苦痛を感じていたことは否めない。恥ずかしいことだ。もっとタフな男でいることが私の望みなのだが。私は「体悪いよね」と執拗に問う彼に対して大丈夫だと何度も繰り返し、漸くそのやり取りから解放された。
逮捕状記載の被疑事実について認めるものか否かについて弁解録取書が作成された後、牢に押し込められた。具体的な日時や金額等は不知だが概ね事実は認める、そう答えたと記憶している。もう消灯の時間が過ぎて暗がりの中、長細い布団を与えられ牢内に身を入れた。先客の牢の住人はもう寝静まっている、私は借り物の草臥れたトレーナーの上下を着て、静かに布団を引くと身を横たえた。
牢内で天井を眺めながら行動の自由を奪われた我が身を実感し、非常なる心理的な圧迫を感じた。ここにあって私は何をどう考えてどう振舞うのが正解なのだろう。逮捕されるかもしれない。そういうことは少し前から勿論考えていた。その前にできることは精一杯やりたい。被害弁償金を稼ぐための営為だ。どうも周辺が騒がしい。周囲を見渡し異常がないか確認しながら自宅に入る、そんな日々が続いていた。
もし身柄の拘束の危機が迫ったら自分はどうするべきか。辱めを受けるくらいなら自ら潔く腹を切り果てるか。そうだ。そう考えるなら心持ちもはっきりしたものだ。しかし被害金の弁償も終えずに人生の終止符を打つのもあまり格好のいいことではないかもしれぬ。結論が出ない日々だった。
しかし堕ちたものだ。つい数年前まで経営する法律事務所を全国に展開する時代の先導者だったはずだ。今や自分はこの牢に相応しい人間だと受け入れるべきなのか。世間はそうと求めている気が物凄く感ぜられた。ここでは自己否定が強く求められている、それを強く感ずる。しかしそれが正解なのか。私はまだ世の中に貢献できる力を失っていないはずだ。それくらいは信じられる。鉄格子に囲まれた空間で天井を睨みながらこう思った。
「牢獄に押し込められたこの措置は、私に自己否定を促がすための装置を作動させたようなものだ。決して心が折れることのないよう、そう世人に化け物のように恐れられるタフな存在になるべきだ。」
そう決意すると母にこの私の心の有り様をすぐにでも伝えたくなった。
「私の心を折ることは叶わぬことだ。」反省とは決して彼らが求めているような自己否定を意味しない。少なくともそれは正しい思索であると確信できていた。しかし、今後自らの思想を深める必要は感じていた。私はそんなことを考えながら、やがて疲れて眠りに付いた。そこから先が見えぬ時間が続くことの覚悟はやんわりとしながら。