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「幽囚の心得」第13章 人権論(4)
人権には自由権、参政権、社会権がある。このうち自由権は精神的自由権、経済的自由権、人身の自由に大別される。これらの人権を性質に応じてその特徴を理解することは、その人権がいかなる理由でどの程度制限を受けることを許容し得るかの判断において極めて重要となってくる。
自由権とは、国家が個人の領域に対して権力的に介入することを排除して、個人の自由な意思決定と活動を保障する人権である。
1789年のフランス人権宣言は「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」とする。全て人間は「生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有する」(ヴァージニア憲法1条)。
人間は生来、自分らしく生きることでその生命を燃焼し尽くし全うする権利を持ってこの世に生まれ出るのであって、これは不当に自由を制限され抑圧された環境の下では到底叶わぬものである。それ故にこそ、自由権は人権カタログの中において中心的な位置を占める重要な人権であると言わねばならない。そして、精神的自由権、経済的自由権、人身の自由に大別される自由権のうち、精神的自由権の重要性は特に認識しておく必要がある。
精神的自由権には、内面的な精神活動の自由と外面的な精神活動の自由があり、両者に分けて捉えるのが人権の制限の許容性を考察する上で有用である。
内面的な精神活動の自由は、日本国憲法においては思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)のうちの信仰の自由、学問の自由(23条)のうちの学問研究の自由がこれに該ると言える。
まず最も根本的な内面的精神活動の自由と言うことができる思想・良心の自由について述べるに、この自由の最も特徴的な点はそれが内心の領域に止まる限りにおいて絶対的に自由であるということである。どのような国家観、世界観、人生観を持っていたとしても、国家権力はこれら内心の思想に基づいて不利益を課したり、その特定の思想を持つこと自体を禁止することはできない。
次に、信教の自由のうちの信仰の自由も個人の内心における自由であって、個人がいかなる宗教を信仰し、また信仰しなくともそれは任意に自らの意思で自由に決定することができ、これを犯すことは絶対に許されない。
そして、学問の自由のうちの学問研究の自由は、真理の発見・探究を目的とした研究を行う、学問の自由の中心をなすものである。何を対象に研究を行うかは本人の自由であって、権力によって干渉されることは許されない。
以上の内面的精神活動の自由は内的領域における思索であって、外面的活動を伴わず、他者と接触しない性質のものである故、その自由を制限する理由は基本的に存しないと言わねばならない。
内面的精神活動の自由は外面的精神活動の前提としてその基礎をなすものであるが、内心の思想は外部に向けて表明されることによって、他者や社会に対して作用を及ぼしその価値を増幅させるものでもある。
それ故、外面的精神活動の自由である表現の自由は人権カタログの中でも極めて重要な人権であり、人権論の体系理解にとって特に注視せねばならぬものである。
表現の自由の優先的地位の根拠は、その自己実現の価値と自己統治の価値に求められる。
即ち、第一に、個人は自己の思想、思念、考えを他者や社会に伝える活動を通じて、自己の人格を発展させるものであり、人間が人格を形成し全うして生きていく上で重大な価値を有している。
第二に、民主政の下で言論活動によって国民はその政治的意思決定の過程に関わるという社会的価値を有している。
これに対して、経済的自由権は職業選択の自由、居住・移転の自由、財産権等を総称したもので、自由な経済活動は近代資本主義社会における当然の前提とされるものである。
以上を把握した上で、以下では人権制約原理の正当性について述べようと思う。