「幽囚の心得」第11章 「葉隠精神」を錬磨せよ(5)
「真実性と誠意がなくては、礼は道化芝居か見世物のたぐいにおちいる。」新渡戸はそう続ける。世は道化芝居に満ちている。
「真のサムライは『誠』に高い敬意を払う。」
「武士は自分たちの高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い『誠』の水準を求められていると考えていた。」
武士の言葉は重みをもって捉えられる。「武士に二言はない」のである。
「嘘をつくこと、あるいはごまかしは、等しく臆病とみなされた。」
虚勢を張っても、臆病者はそれと見透かされる。その虚勢の姿は滑稽の極みだ。自らの言葉に相反する行動は許されるものではない。まずもって、虚勢を張らぬことをもって自身の行動指針とするべきであろう。
どう生くべきかという最も人間の本質的な問題に「誠」をもって正面から向き合おう。その真理の探究を疎い、そこから目を逸らし、自らを誤魔化しながら生きる者は心の巣くう空虚から逃れることはできない。
受刑者である我々は臆病者の誹りを受けぬよう「誠」をもって自らの人生を再構築していかねばならない。一切の誤魔化しを排するのだ。臆病者の心は弱い。弱き心は新渡戸の言うとおり不名誉そのものである。
「武士道の中心には名誉があった。」新渡戸はそのようにも言うのだ。武士道において「名誉」とは生死をもって守られるべき徳目であった。
「名誉」を単に体面、面目、体裁と捉えると、それは世間からの評価の高いことを意味するようにも思えるが、「名誉」の概念の理解においてこれは全く浅薄であると言わねばならない。
「名誉」はむしろ凡俗に対する不従順、超越というかたちで現れるものであり、そもそも世間並の人間が得ることのできるものではない。
西郷南洲の遺訓に「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽て(つくして)人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」とある。
凡俗からの評価が高い状態を「名誉」とするのであれば、それは如何ほどの価値のあるものか。
新渡戸は明確にはしていないが、「名誉」の徳を探究するにこれは極めて重要である。その本質は「人を相手にせず、天を相手に」するところの真理に対して恥じぬ己れであるという点にあるというべきである。その者の真理に向き合う「生き様」こそが「名誉」ある評価に値する。
ここで真理とは生命燃焼の対象と符合すると言ってよい。己れが生命燃焼の対象と定めた価値に違うことなく振舞い生きること、これが即ち「名誉」ある生に他ならない。
新渡戸は「名誉は〜それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ、ということに気づいているのは、ごくわずかの高徳の人びとだけである」とする。
「もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思」える。それが真の「名誉」心である。凡俗からの評価や賞賛を言うものではないということは強く指摘しておく。
孟子は「羞悪の心は義の端(はじめ)也」と述べた。
「義」とは先に述べたとおり、「正義の道理」を意味する。「義」に適う自らの使命を全うし、その価値を貫くことこそ、「名誉」を生むのである。
以上のように、「名誉」心というものは自己を第一の対象とするというその性質を理解することは極めて重要であることを重ねて強調しておく。蓋し、巷間、「名誉」心の如く評されることの多くが浅薄な虚栄に基づくものであるからである。
三木清曰く、「虚栄心が対世間的であるのに反して、名誉心は自己の品位についての自覚である。」
「虚栄心の虜(とりこ)になるとき、人間は自己を失い、個人の独自性の意識を失うのがつねである。」
「名誉心においては、それが虚栄心に変ずることなく真に名誉心にとどまっている限り、人間は自己と自己の独自性の自覚に立つのでなければならぬ。」
人間は社会的な存在であり、それ故にこそ、社会に対する自己の存在の意義について虚栄心を有することは自然のことであろう。しかし、それが単なる虚栄に止まるとき、それは自儘な性質を拭い去ることはできない。
平均人は自身の有するこの虚栄心によって押し潰されないようにするために日々小事において下卑た虚栄心を発露する。その様は端から見るに如何にも小人的な振舞いに映り、極めて滑稽である。
三木清は次のように続ける。
「名誉心というのはすべて抽象的なものに対する情熱である。抽象的なものに対する情熱をもっているかどうかが名誉心にとって基準である。」
「すべての名誉心は何等かの仕方で永遠を考えている。この永遠というものは抽象的なものである。たとえば名を惜しむという場合、名は個人の品位の意識であり、しかもそれは抽象的なものとして永遠に関係付けられている。」
単なる虚栄は基軸を持たないため、常に場当たり的であり、社会的にも意味が乏しい。叶わぬ虚栄はしばしば他者を犠牲にする。これは受刑者によく現れる悪性であるが、小人輩のこのような下卑た虚栄に付き合わされることほど辟易とするものはない。刑事施設において、何が苦痛かと言ったら、この頭の悪い下輩の下らぬ虚栄に付き合わされることであると言える。誠に鬱陶しいことだ。まるで出来の悪い中学生かと思う。
人間である限り、誰もが有している、この虚栄というものを名誉に昇華させんとする勇者はこう生くべきという高き志を堅固な基軸として構築しているものだ。
名誉心はその求める対象のあまりの巨大さから己れを滅ぼすことも間々ある。勇者はその自らの滅びによって、生命燃焼を果たし生を全うすることで自己を証明するのである。名誉とは身命を賭して守られるべきもので、その覚悟なき惰弱な人間に付与されることは絶対にない。名誉は生死に関わるが故に崇高なものとなるのだ。
世に多く見られるのは、因循姑息な小輩同士で互いに賞揚し合う滑稽な姿である。そこにあるのは単なる卑賤な虚栄心のみであり、互いに滅びを避けるべくなされる予定調和の慰みでしかない。それ故、虚栄には深層において虚無を伴うのが常である。
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