「幽囚の心得」第13章 人権論(1)
刑罰を科すということは民主制の下で想定しうるところの最大の人権侵害行為と評される。国家の権力作用として実際に現場において刑罰の執行行為を担う刑務官はこのことを正しく理解し、如何なる人権が如何なる根拠の下に、如何なる制約を如何なる程度において許されるものかを不断に検証する姿勢を有していなければならない。
そして、受刑者もまた自身の今ある境遇の意味、性質を理解するに、人権の観念の理解は必須であると言うべきだろう。自身が人権を制約される場にいることの意味を考察せずして刑罰を科されている自分の現在位置など把握することはできない。
しかし、私は受刑者に対し、どこかの左派論者のように何でもかんでも自身の個別的な人権を権力機関に対して声高に主張せよと言っているわけではない。むしろ抑圧に非日常性を感じた方がその者の再生に近かろうと思っている。受刑者に人権論を説く意味は、論理を知ることで客観的な物事の是非を把握する姿勢を身に付けることが大切だからである。知識がない中で、そんなことは意に介さず、自らの自儘な欲求のままに偏った現状認識と行動選択を為すのはもう止めよと伝えたいからである。自らが科されている刑罰という人権制約の在り方を正しく理解することは、自らの行為によって他者の如何なる人権がどのように侵害されたかという受刑者にとっての峻厳且つ過酷なる、しかし必ず直視しなければならぬ事実に向き合うことにその者を誘う。
刑事施設側も不要な人権制約は止めにすべきであるが、同時に基本的なリテラシーのないままに為される受刑者に対する無用な配慮も止めねばならぬ。受刑者の生活について、その「日常性」を維持するような対応をいくら重ねても彼らの再生は叶わない。これは真実なのだ。
刑務官に総じて言えるが、全く勉強が足らぬ故、判断の基軸も確固として構築されておらず、その対応は雰囲気に応じた場当たり的なものにしか見えないものとなっている。「人権」に配慮する意識を多少持ったとしても、彼らの思考は「日常性」の維持イコール「人権保障」という見当違いのものに止まるのがせいぜいだ。リーガルマインド(法的思考力)を身に付けよなどと要求するとそれは司法試験に合格してしまう話になってしまうから、そこまでは言うことはしないが、せめて三流大学の法学部の授業で習うくらいの程度のことは勉強すべきである。
さて、近代憲法は、その根拠となり、またその内容を規律するところの「根本規範」に支えられている。この「根本規範」における核心的且つ究極的価値こそ、いわゆる「個人の尊厳の原理」(「人間の人格不可侵の原則」)である。我が日本国憲法も基本的人権の尊重・保障や統治機構の全てを通じて、その規定や制度設計において、徹頭徹尾この「個人の尊厳の原理」に依拠している。
「個人の尊厳の原理」は平たく言えば、その人らしく人生を全うする価値を至上のものとする思想である。その人らしく人生を全うすることに価値を置くとき、その価値の根源は個人にあるという思想に達し、そこから人間はそもそも生まれながらの生来的権利を有するものであるとする自然権思想に結び付く。そして、近代憲法はこれを実定化したものであるということに帰結する。つまり制定法の前に自然権思想がある。なお、価値の根源を個人に置く思想の下では憲法を実定化する主体は個人たる国民であり国民が憲法制定権力の保持者となる。国家権力の機関を定め、各機関に国家作用(立法権、行政権、司法権)を授権する究極の根拠は全て個人たる国民に帰しているということになる。