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「幽囚の心得」第7章                   リベラリズムの限界、その内在する問題          「見捨てられた人間」は如何にして救われるか(4)

 受刑者は刑期が満了し社会復帰をしても、従前の社会の従前の位置、否、従前よりももっと劣後した位置に付くのが大抵であろう。その位置に戻って、従前と変わらぬ刹那と享楽で自らを誤魔化しながら生きていっても、心の充足は到底訪れることはない。相も変らぬ心の焦燥は再びの過ちに自らを誘う可能性も大きいだろう。

 一方で、凡俗が求める社会の価値とも言えぬ価値らしきもの、彼らがそう強弁するところのものに従う秩序の下、これに追従し後塵を拝することを諾しても、そもそも世人の生き方自体が虚構に塗れている以上、そこでは真実の価値は見出せず、その忍従は憂悶を齎すだけである。ここにおいても受刑者が救われることはない。

 受刑者の選ぶべき道は以上の二つの下にはない。如何に生くべきかのみを一心に探究し続ける第三の道を選ぶ他ないのだ。その際は当然のことながら、過去の過ちを都合よく消し去ることなどできない。この過去を向後の自らの人生の中で、人生によって意味付けていくという難行がそこでは待ち受けている。しかし、怯んではならない。人生の成功と心の充足は真の勇者にのみ齎されるものだ。社会に諫められてもその社会に追従することが正しいわけではない。むしろ自らを奮い立たせてその社会に対して真実をもって挑んでいくのである。
 そして同時に大事なことは、自分のここに拠って立つ起源であるところの国と社会、その伝統、歴史、文化を愛することである。自らの愛する国と社会の為に自らが為せることは何か、自らの役割如何を探究し続けることを忘れてはならない。国と社会という自らの生成に不可欠であった大前提を透して自己を見つめることで、自己の実像、心根の本当の姿が見えてくるはずである。それは必ず伝統的な道徳価値に基づく正義の観念に適合したものとなるのだ。そして、その時、その者は世に根無し草のように浮遊する多くの俗人とは一線を画した人生の有意味性を獲得することだろう。


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