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「幽囚の心得」                       第3章 「固有性」を強める(2)

 人生の岐路に立たされた時には、敢えて険しい隘路を行くことを選択しなければならない。安易な妥協をして凡庸な人間に堕すべきではない。まして、その安直な道を選択した自分をまるで理性的な判断をなしたかのように正当化しようとする無様を晒すのは全く見ていられぬほどの醜態だと言わねばならぬ。そのような愚者は、自らの臆病を覆い隠さんと勇ある他者を殊更に非難し、またその足を引っ張ろうと画策したりというという卑怯姑息を働くものだ。こうした所業は自らが凡俗であることを世に表明するに等しい。彼らを如何に矯正しようかと考えることは全く徒労なことである。勇なる者は、この種の凡俗が濁世において一定割合存することを認めつつ、自身は自らの課題に専心するのみでよくそれが正しい。
 
 自らの自尊心というものを護持するのは専ら自らによってのみ為されるべきもので、他者を貶めることで相対的に自己の地位が上がったかのように自分で自分を騙したり、自己の評価を他者に押し付け、その他者に気を遣わせるような児戯を働かすような徒輩は蔑視されてよい。自分特有の「固有性」を強める刻苦を重ねる者はそのような徒輩との係りは全く無益である。

 さて、ここで受刑者であること、あったことも「固有性」を強めたと評し得ることにならないかという問題にも触れておかねばならないと思う。結論から言うと、その者の受刑という経験は極めて特異のものであることは間違いなく他の者にないものである故、それは「固有性」を強める作用をなしたと言えようものであろう。しかしながら、勿論、それだからと言ってその受刑者としての「固有性」の獲得に向けた所為や心根が正当視される謂れはない。
 本来的に“生きる”ということは正義に向けられていなければならないものだ。「固有性」を強めるということは、即ち、よりその人らしく生きていくということであり、より本来あるところの自分になっていくということである。より本来あるところの自分が如何なる存在であるものか、その追求は正義に適わぬものとはなり得ない。楽と欲に逃れ、自らを許し、単簡に私益を求めるだけの生き方のどこにも本来あるべきところの自分は存在しないのだ。その意味では「固有性」の獲得への道は、本質的には人の生の真実追求の道に合致すると言ってよいのである。

 尤も、受刑者の心得としては、「固有性」を強める特異な経験を得たことを優位に捉えるくらいの気象人とならねば、人間としての再生は望めないと肝に銘じるべきである。このように言うことは当然のことではあるが、「固有性」の獲得は、裏社会の人間が“ムショ帰り”で箔が付いたなどと使うときのそのようなことを意味するものではない。正義に向き合う生の過酷から逃避し、人間価値的に梲が上がらない自分に恥を重ねても何らの箔も付くはずはない。自らの懶惰と怯懦を世に晒すばかりである。
 思うに、受刑者の素性を見るに、彼らは世人に比し、ある意味で自らの内にある鬱屈した心情に正直な所為を働いたとも言えるのではないか。そのようにも言える側面もあるのではないか。そうも思うのだ。勿論、その所為は肯定されるべきものではないが、分析的にそれを見るに、現状の何かを変えたいという発動がそのような誤ったかたちを顕わしたとも言えるのではないかと思慮するところもあるのである。その方法は短絡的で自らの懶惰と怯懦を表しているだけで明白に誤っているが。

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