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「幽囚の心得」第20章                                     切腹の精神と作法(自殺論)(6)                                                     「切腹の所作には己れの武士たる心根と胆力の有り様が現れる」

 戦国の世が終わり徳川の治世になり、封建武士道が整理され完成されていく。切腹も戦の中で武勇を示す象徴たる位置付け、戦場における死に華を咲かせる態のものから、武家社会の規律を示す行刑上のものが主だったものとなってくる。

 勿論、切腹のその内在する精神性は、自らの為した所為は自らで落とし前をつけるという潔さ、清廉性にあり、それは武士道の本質そのものである故、泰平の世にあっても武士が武士である限りにおいて、賜死のかたちによらずとも他の場面において、名誉の為にまた忠義の為に、そして自認する責任の為に自殺の方法として引き続き切腹が選択された。そして、封建武士道が理論化されていく中で、切腹も作法礼法を様式化していった。

 切腹は原則的に武士にのみ許される所作である。これは当時においては武士は自らの事は自らで処置する分別を持っていることを前提にする故なのである。賜死において、武士はその罪科を知り、これをしっかりと受け止めて、自らの手で自らを絶命させ、その死をもって懺悔謝罪する分別と覚悟を持っている。これに対し、昔時において町人百姓は知識も分別も覚悟も乏しい者と捉えられ、それ故に罪科を罪科と教え、彼らにそれを償わせる為に斬首、打首に処してやるという扱いがなされた。私が度々自らの過ちの責任をとるのに本来官憲の助けなどいらぬものだと弁じている真意が理解出来よう。刑罰の執行に携わる現場の者の遇々なされる度が過ぎた振舞いは、私には侮辱に感じるのだ。自らの為した事の始末は自らが付ける、本来これが士人としての身の処し方である。
 
 さて、様式化した切腹の作法を見よう。工藤行広の『自刃録』を引くこととする。
 「切腹の作法は、其座に直り候と、検使へ黙礼し、右より肌を脱、左へ脱終り、左手にて刀を取、右手に添へ押し戴き、切先を左へ向直し、右手に持替、左手に三度腹を押撫、臍の上一寸計の上通りに、左へ突立、右へ引廻す也。或は臍の下通りが宣しと云う。深さ三分か五分に過ぐからず、夫より深きは、廻り難きものなりと云。
 腹に突込むべき程を残して、短刀を握り、巻を以て腹を撫づるように、切べしと云。
 前にも云通り、此前に事済べし。心得とて、此の場にいたり、何をか為くべきや。先方の仕向に従い、わろびれず、静にして死につくべき也。」
 臨む服装は白小袖麻上下、短刀は白鞘九寸五分(1寸=曲尺(かねじゃく)約3.03センチメートル)が定法でこれを奉書紙で包み二ヶ所結びにし、三方(さんぼう)に載せて運んで来る。

(1)「一文字腹」は、右手で刀の切先を左の脇腹に突き立て、右の方に引廻し、腹一文字に掻き切る。
(2)「二文字腹」は、一文字切った上にもう一本平行に同様に左から右に引廻し二文字とする。
(3)「十文字腹」は、一文字腹を経て刀を抜いた上に、更に鳩尾に突き立て臍の下まで垂直に切り下げる。切り下げる途中で横一文字と交差し十文字とする。

 大腸を断ち切るくらいに深く切る。それでも出血多量で死ぬには時間が掛かるので、介錯を施す。介錯人は切腹人が存分に遂げたことを捕えてその首に太刀を振い斬り落とす。介錯人のなきときは、気力があれば、自ら更に咽喉や心臓を突く。屠腹の瞬間、上体はうつ伏すことが正しい嗜みで後ろに倒れるは武士として恥となる。

 以上の所為を遂げ見事これを果たすまで、心静謐にして実行し死につくべきである。介錯人は抜刀の前に職位と姓名を告げるが、その際も切腹人はその労を労い「御苦労でござる」等々伝え会釈する態度が正しい。切腹は武士道の本義から生じたものであり、その所作には己れの武士たる心根と胆力の有り様が現れると言わねばならない。

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