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小説「獄中の元弁護士」(11) 「死んでしまうのではないかと思った」
(東京拘置所面会室)
母親がいつもの気丈な彼女に戻っていた。さすがだ。逆に「もういいから控訴申立を取り下げて、早く手続を進めて頂戴」などと言う。
早速、取下げの手続を取った。母の引っ越し先にも目途が立ちつつあった。
そう言えば、この間、かつて弁護士会の派閥の、若手の会の執行部で一緒だった先輩弁護士たちが面会に来てくれた。中でも小島晃一弁護士は、自身が受任している刑事事件の被疑者接見のついでに3回も寄ってくれた。
小島弁護士は刑事事件を多く扱っていた。私が逮捕されたのを聞いて自分が私の弁護を担うことも考えくれていたようだ。その時には母が私の元のボス弁に弁護を依頼済みではあったのだが。
かつて私は彼について、「小島晃一というすごい弁護士を知っていますか」とSNSで発信したことがある。彼は出入国在留管理庁、いわゆる入管であるが、そこに収容されている外国人処遇の問題に、長年手弁当で関わってきた。無償で牛久に足繁く通う日常である。こういう社会的に必要な活動に注力する弁護士に、その彼が畢生の仕事と考える職務に心置きなく力を向けてもらう、そんな事務所が私の理想であった。稼ぐのはこちらでやるから大いにやってくれと、そんな態勢にしなければならないと思っていた。弁護士が損得勘定ばかりしながら仕事を選ぶのではそれは世の中における役割を務めているとは言えない。私はそう思う。
「死んでしまうのではないかと思った。」
アクリル板の向こうで、彼はぽつりと呟いた。私は少し苦笑しながらそれに答えた。
「腹を裂いて責任を取らなきゃいけないとも考えたけれども、返していない段階でそれをするのも“格好悪い”から止めました。」
腹を裂くことはいつでもできる。実のある責任を果たすことをまずは考えよう。先々にその責任を果たし得ない自分であることが判明したら、その時は潔く腹を切って詫びよう。それまでは生かしてもらいたい。
ここで責任とは損害の填補だけのことを言うものではない。今はうまく言えないが、それに加えて、世の中において何か役割を果たすということも内含する、そういう自己存在の在り方を指して言うものである。
もっとも最終的な判断権者は、一面で自己存在の帰趨を争う相手方である世間の人々だ。私がやり尽くしたと思っても、世間がそうは思わないとしてなおも私に自己否定を求めるのであれば、私はその際も潔く腹を切ろう。それが世間の求める自己否定というものの究極のかたちのはずだ。世間がそれを望むなら最終的な選択肢として想定しておくこととする。ただ、もう一戦は戦をさせて貰う。そう思っていた。
小島弁護士が何か差入れをしようと言ってくれるので甘えてしまった。覚悟が足らないか。いや、生存のためだ。許されるべきだろう。チョコパイと唐辛子味の辛い煎餅を頼んだ。刑事施設にいると甘い物と辛い物を身体が欲する。
12月24日のクリスマスイブの日に私は赤落ちした。赤落ちとは刑務所用語で、刑期がそこから正式に進行する状態のことをいう。赤落ちするまでは未決囚の立場にあるというわけだ。
もっとも私は、このようないわゆる刑務所用語を使うことを嫌った。代表的な言葉は「シャバ」だろう。「シャバ」も「ムショ」もない。どちらも世の中だ。わざわざ世間の人間のレッテル貼りに自ら手を貸す必要はない。受刑者は虚勢を張っているのか、自虐的にものを言っているのか分からないが、その振舞いによって自分と異なる性質の人間で自分の下位に付くべき者という、「ムショ帰り」に対する世間の捉え方に迎合してしまっている。その構図を客観視すれば、それは愚かで滑稽なものでしかないだろう。
もう年末だ。行政機関の動きであるから実際に房を移動するのは来年早々になるのではないか。勝手にそう思っていた。房を移動するまでは刑期は進行していても処遇は未決囚に対する扱いが継続する。
ところが年内最後の就業日であろう12月29日の朝、突然、私の房の鉄の扉がガチャンとけたたましい音と共に開いたのだ。
「今日、転室!朝食後移動するから準備しておいて!菓子類とかはそれまでに食える分だけ食っちゃっといて!残った物は持って行けないから!没収だから!」
刑務官が無慈悲に、しかし彼としたらいつもの文句で私に告げる。
(何てことだ!)
年明けでの移動だと勝手に思っていた私は、年末年始で食べる物のいつ何をどれくらい食べるかについて大方のスケジュールを考えていた。笑わないで欲しい。逼塞した者の心理の状態はそんなものだ。せめてもの正月の楽しみであるのだ。
母親が金がない中差し入れてくれた菓子や蜜柑を最後にできるだけ口の中に掻き込んだ。それでもどうしても残る。何か切なかった。申し訳なく思った。
大晦日、ラジオでは紅白歌合戦を流している。こうした逼塞した境涯にあると家族団欒の風景に憧れる気持ちが強まる。NHKの日曜日の昼に放送している「のど自慢」なども、柔らかな笑顔で聞いていた。
サザンオールスターズが「勝手にシンドバット」を歌う。松任谷由実を巻き込んでいる。
もうすぐ今年も終わる。来年には、私にとって未知の受刑生活が本格的に始まる。刑事施設の被収容者に対する扱いは、とにかくその者の精神を圧迫しながら自己否定を促し続ける、単純且つぞんざいなものだ。受刑者となれば尚更だろう。これに抗わねば自分が消えてしまう。自分の全部を否定し消し去ることが反省だとは私は思わない。