「幽囚の心得」第18章 幸福論(6) 「幸福は純化した『利他の精神』の発現の先にこそある」
「幸福は自己に満足する人のものである。」とアリストテレスは言う。
20歳前後の頃であったか、まだ嘴の黄色い私は、「幸せにして欲しいという顔をした女性は好かない。幸せというものが自らが満足することだとすると僕の幸せが君の幸せの全部になるなんてことはあり得ないことだ。君は自分の幸せを自分で摑んで満足する必要がある。」などと嘯き、女性に冷たい人だと思われたりしていたものだ。
基本構造の形式は今でもそのとおりだろうと思うところもあるが、やはり形式的、表面的に過ぎる。私もやはり戦後の教育の下で触れて来た合理主議的思考に侵されていたのだろう。相手の女性が冷たい人間と受け取っても当然であると思う。
論理的に理屈が適っていても、それが徳義に照らして正しいものであるとは限らない。要は何をもってすれば、、真に心は充足するのかという根源の問題である。その点の考察なくして人の生きよう様を示す「真理」は見出せない。
私は収監された後、一度、過ちを犯した人間は爾後の人生において如何にして自己が生きることの正当性を見出していったらいいものか深慮黙考を続けた。もとよりそれが見出せぬなら「生」を選択してはならない立場を認識すべきだと自覚していた。自覚しなくては駄目だ。
この辛苦の後、辿り着いたその解こそ、これまで以上の徹底した「利他主義」にあったのである。私は弁護士として一体幾人の人々の人生に関わってきたであろうか。人一倍、依頼者の方々の人生に近いところでその心に寄り添い、人生の重荷を共に背負うような仕事をして来た自負はあった。自らの私生活というものはほとんど顧みることのない日々であった。そこには確かに使命感があった。これは自身今でもそうであったと断言できる。しかし、この度の自家撞着とも言える愚行である。私は、依頼者の方に叱られるだろうが、大義の前の小義とでも自分の中で捉えようとしていたとしか説明し難い。いや、確かにそう考えていたのだと思う。私はまだ、究極のワンストップ・リーガルサービスの再生と完成を諦めてはいなかったのである。その意味では、私はもしかしたら確信犯であったのかもしれない。
阪急・東宝グループの創設者である小林一三翁が「事業というものは誰かの犠牲の下で行ってはならない」旨述べていたが、本当にそのとおりだと心に染みたのだった。
実務家弁護士としての私は「利他心」をもって依頼者の方々の人生の大事に関わらせていただいていたと思うけれども、もっともっと徹した「利他」の精神というもの、そうしたものを探求することができたのではないかと改めて再考した。自己が空っぽになるくらいの「利他」に満ちた精神というものは、人間が備えるものとして、そもそも世に存在し得るのか、そういうことを思索したりもした。同時に自己が強靭であらねば、実際に「利他」の精神を具現化しかたちに現すことはできないだろうとも考えた。今はそのように思惟するが、それにしてもその自己の強靭化すら「利他心」を動機とするほどの「利他」の精神で満ち満ちた自分というものに成る、そこに至ることで初めて自己の生存が許容される道理が存するように思えた。そして、その思索の到達点としてこれが「真理」だと思えたのは、こうした「利他」の精神に満ちた自己が感ずる「幸福感」を内において確信し得たことであった。
結論を述べる。真の心の充足、「幸福」というものは、純化した、徹底した「利他」の精神の発現の先にこそ存するのだ。否、そこにしか存在しないのだ。一度、過ちを犯した受刑者も、この「利他心」の透徹した境地に至れば、世の平均人よりも「善く」生きることができることになるであろう。