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「幽囚の心得」第23章                                                      懐疑主義と不条理(2)                                                                       「真の思想は不条理に対して抗い屈服することはない」

 アルベール・カミュの著作に『シーシュポスの神話』がある。概略、以下のような話だ。

 神々がシーシュポスに科した刑罰は、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運び上げるというものだったが、一度山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。シーシュポスはその度に麓に戻り、その下の方の世界から再び岩を頂上まで押し上げて来なければならぬのである。このような無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はない、神々はそう考え、シーシュポスにこれを科したものと思われる。
 シーシュポスのこの行を為す有様は正に「不条理」そのものである。尤も、シーシュポスにとって、下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが悦びのうちになされることもあるという。そして、きっとやり遂げるという希望は岩を押し上げる一歩ごとに彼を支える一方、彼が意識的になる瞬間だけは彼は全く悲劇的な存在となっていくのであった。

 世は「不条理」に満ち満ちている。カミュは生の悦びとこの世の不条理とは統一を望みながらも、それが不可能である故、常に緊張を孕んだ対立を続けていくことになると認識している。それ故、不条理性を克服せんとする思想は、最終的に神に頼るなど、飛躍を伴うのが常であると考えている。

 尤も、カミュはこの二項対立をそのまま放置してよいと言っているのではない。世の不条理性から眼を離さずに、真理である「聖なるもの」を目指す行為の英雄的であることを賞揚しているのだ。
 カミュは言う。
「幸福と不条理とは同じ一つの大地から生まれた二人の息子である。」
「不条理な人間は、自らの責苦を凝視するとき、一切の偶像を沈黙させる。」
「宿命とは軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断」する。

 ここで言う「不条理な人間」とは、「不条理」を覚知しこれを凝視しながら、真理を探究する者の意であろう。カミュによると、この「不条理な人間」こそが幸福なのだという。

 世の懶惰な大衆人は「不条理」と安易な妥協をするか、あるいは「不条理」に屈従してしまっている。「不条理」というものは思想なきところには、彼らにとって無益なものとして現れるものであり、これは即ち、現代の大衆の姿そのものを表出しているものである。

 これに対して、真の思想というものは「不条理」に対しこれに抗い、到底屈服などしはしない。
 思想を持たず、また求めぬ者の言動は随分といい加減なもので、こうした軽輩は思想の持つ重厚な生についての意味合いもそれとは気付かず、内容も十分には理解しはしない。他者の思想に触れることの恐ろしさを知らぬ故、不用意に、そして無礼に踏み込んで来る、呆れた態を示すことも間々ある。ショーペンハウアーはこの手の不届きな愚者を俗物と呼ぶ。
 「不条理」は思想を無秩序なまま弾圧するが、思想は真理を求めるものである以上、絶対的であって、それは常に行動としての一貫性として顕現するもの故、「不条理」などという根拠の薄い俗事に屈従することなど全くあり得ないことなのである。

 人間にとって大事なことの一つは、自らの意志に適合する意識的な行動選択とその行動態度を如何に維持していくかということである。これが定まらないと大した人物にならない。損得哲学の下で、安易に「不条理」に迎合するなど以ての外である。世には「不条理」に迎合しながら燻べて生きている徒輩が極めて多く、これらの人間によって「不条理」は更に倍加していっている惨状にある。

 こうした「不条理」に相対することは我々が生きる上で避けられぬことであろう。そのことを心に留めて、ドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーではないが、「それでもなお」我々は不撓不屈の精神でより善く生きることを目指し、自分という人間の生き様をこの現世で刻み込んでいかねばならないのだ。私の受刑者に対する主要なメッセージは、この世に存するところの「不条理」に屈従するなということになる。共にこれに抗っていこうではないかということになる。

 さて、本日は令和6年5月26日、ここで6年余の面壁の期間思索を続け、2年半を掛けて書き綴った本書について一旦筆を擱こう。明日は仮釈放の準備の為、事前に荷物は預けねばならない。仮釈放が実施される5月29日、ここから私の真価が問われる更なる修錬と闘争の日々が始まるのだ。

                 喜連川社会復帰促進センターにて

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