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「幽囚の心得」第17章 責任論(1)
「責任」という概念の要諦は、自分の仕出かした事の始末は自分でつけるという道義心にある。
しかし、獄に繋がれながら周囲を見渡すと、被害者の存する犯罪を犯した受刑者であっても、その大多数が刑事罰を受けることで、それだけで十分「責任」を果たしたことになるなどと全く自分に都合よく考えていることに驚倒するのだ。彼らはこのような辛苦を味わったのだから、被害弁償は別途行う必要はないだろうと本気で考えている。そして、仮釈放に向けた手続においては、自身の利の為に恰も被害弁償の意思があるかのように仮装し、心と違う対応を平然とするのである。
これを受けた矯正施設側の人間、保護観察官も地方更生保護委員会委員も、心底では被害弁償をする力量もその決意もないだろうと彼の虚偽の弁に気付きながらも、形式的な応答でよしとしお茶を濁すという予定調和の醜状を醸している。このような欺瞞に満ちた空間には全く耐え難いものがある。今の日本はどこもこのような紛いものばかりだ。随分といい加減な仕事だ。これでは、受刑者の矯正指導など効果が見込めるはずなどないのだ。
まずそもそも「責任」などというものは、他者から言われてこれに対応し果たしていくものでは本来はないのだ。自らが招いた不正義な結果については、自らが自発的に如何に為すべきかを思慮し、その是正の為に必要な事を実行に移すことということが正しい在り方である。我々受刑者は国家により刑事的「責任」に応じた刑事罰を受けたが、責任を果たすに本来、官憲の力など借りる必要などないのである。有期懲役刑や禁固刑の刑事罰は、刑事「責任」に応じた期間設定がなされるものであるが、「責任」の全うには本来期間の仕切りなどはないのであって、それはその者の一生涯を通じて負い続けるべき性質のものである。そうしたことを抜きにした、自らの「生」などというものは存在しないと強く自覚すべきだ。
如何に被害弁償を果たしたとしても、被害者の方の人生から過去に遡って当該事件の発生の事実が消えてなくなることはなく、失った人生の時間が返ることはないという峻厳なる事実を直視するならば、このことは論を俟たぬものと理解できるであろう。一体この受刑者という人種の胆の座らなさは何なのか。この峻厳なる事実について、目を覆いこれを直視せず、刹那な享楽で憂さを晴らすばかりの誤魔化しだらけの人生に何の意味があろう。魂が腐臭を放つほどの何らの価値もない人生ではないか。
自分の仕出かした事の始末は自分で決着を付けるのだ。結果的に為すべき事、成すべき事が出来ない情けない自分であることが判明した場合の落とし前の付け方は自らが考えることだ。武士が潔く切腹するが如くである。
問題は極めて単純である。為すべき事を為し、それをやり尽くすか、期待どおりの自分でなかったことが判明したときは潔く腹を切るかだ。そう覚悟して考えると、むしろ心は爽快なものとなり、自身、一片の卑屈さも生じぬ心気になるはずである。普段、肩を怒らせて虚勢を張っているのであるから、それくらいの意気を示したらどうなのかと思う。官憲の力を借りて「責任」を取らされている自分の姿に羞恥を感じるべきだ。その刑事収容施設内においてすら、ばれなければよいとしてこそこそと遵守事項違反の小悪を犯す姑息な小人輩には無理な注文であるかもしれぬが。
ところで、「責任」というものは如何なる場合に感じ、そしてこれを負うべきものなのであろうか。この概念を整理し規定しておくことは、それが究極的に人の生死に関わることになる性質を有することになるのであるから極めて重要である。