「幽囚の心得」第19章 死生観(1) 「人は生だけによって生きるのではない」
我々が人生というものについて感懐するとき、まず心で為すべきことは、「死」に瀕したときの自己の肉体と精神の有様を観想するということだ。自らが死していく姿を予め想念することは邪念を払い真理を見出す為の一片耿々たる赤心を導くことに働く。
「死」を直視しこれを終点として見据えて「生」を考えると「生」の真の姿が浮揚し鮮明になってくる。現代は「死」を等閑に付し「生」ばかりを賞揚するため、「生」に邪曲な夾雑物が混交し、その真の姿が曇ってしまい見えづらくなっているのだ。
生きる為に生きようとすると人間は卑俗な我欲によって自己の「善」を制御できない状況に陥る。死ぬ為に生きようとすると、心が澄み、雑多な想念が生じない故、本当の「生」の目的を見出しやすく、純一無雑にその目的に向かい邁進することが出来る。
人間は「生」だけによって生きるのではない。
「生」と「死」は一体不二とも言うべきものである。善く死ぬということは善く生きるということである。
生即死、死即生という「死生一如」の思想こそ、我々が自らの人生を美しきものとするに不可欠のものだ。
美しい人生の在り方を極点において規定するものは正しく「死」である。人は美しく生き、美しく死ぬことを想念すると自ずとその日々は緊張の連続となる。
「必死の観念、一日仕切りなるべし。」(『葉隠』以下同)
(必死の覚悟と云うのは、日々に仕切って思い知ることが大切である。)
美しき人生は必死の念の日々の積み重ねによって成るのだ。
「唯今がその時、その時が唯今なり。二つに合点してゐる故、その時の間に合はず。」
(ただ今がその時、その時がただ今である。いざという時と平常とは同じである。これを二つの別々のことに理解しているから、いざという時に間に合わないのだ。)
「端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。ここに覚え付き候へば、外に忙(せは)しき事もなく、求むることもなし。この一念を守って暮すまでなり。」
(結局のところ重要なのは、現在の一念、つまりひたすらな思いより他には何もないということである。一念、一念と積み重ねていって、つまりはそれが一生となるのである。このことに思いつきさえすれば、他に忙しいこともなく、探し求めることも必要なくなり、ただこの一念、つまりひたすらな思いを守って暮らすだけである。)(以上(訳)『葉隠入門』三島由紀夫(新潮文庫))
人生において、一瞬一瞬が命懸けの真剣勝負であり、一瞬一瞬がその者の真実である。人は美しく生きようと覚悟する限り、為すべき事に自らの持てる力を余すところなく注がねばならない。その一事一事の行動が必死の念によらねばそれは本物ではない。つまり本気の衝動は常に「死」を想念し、「死」と背中合わせなのだ。それに至らぬ中途半端な態は本気のものとは言わぬものである。
美しい「生」には一分の隙さえ許されない。一瞬一瞬に真実がなければ、その人生にも真実など認めることはできない。全ての人間の精一杯の行動は「死」と密接に連関している。日々の「生」は常に「死」に繋がることを本質とするのである。そこを断ち切っただらけた「生」など家畜のものと同質なのだ。人間がその「生」を全うするには必死の「生」を想起しなければならない。「常住戦場」「常住死身」を日々自身に訴え続けその意識を自分そのものとしていくのである。
「毎朝毎夕、改めては死に改めては死に常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなり。」
(毎朝毎夕、改めては死に改めては死にと云う鍛錬を重ねて、常に死身になり切っている時は、武士道を思うがままに実践し、一生過ちもなく、武士の勤めを果たすことができるのである。)
人間一般の能力というものは一部の特定の分野における特殊な者を除いてそうは大差のないものだ。成功者と凡俗との差は実は紙一重の差でしかない。
人間の営為によって生じる結果の差は、その目指す過程において精神が疲弊したときに、あと一歩踏ん張り、死ぬ気で、死しても結果を得る、刺し違えても勝つとの気概でやり切ることができるかどうかという点によってのみ生じるに過ぎないのだ。それができる人間が勝ち、そして生き残るというだけのことだ。だるい、かったるいなどと言って、斜に構えて為すべき事を為すということを怠る者は如何に格好をつけているつもりでも、それは自己を許す、単なる根性無しの本質を露わにしているに過ぎない。全く頼りにならない、使い物にならぬ輩であることを自ら証明しているようなものだ。
「常住死身」になり切ることのできる勇者は、他に比して、その言動、否、黙していてもだ、その佇まいに端倪すべからざる「気」を発するものである。
そうした胆力に優れた者は同様の魂の強靭さを持つ人間と自然と交わる。これは不思議とそうなのだ。しかし、不思議だが不思議でない。必然の様でもあるのだ。
そして、そこに人世を動かす営為が生まれることになる。これが世の真実なのである。