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「幽囚の心得」第14章                           自由論(3)

 「自由」とは何らの縛りのない状態を言うのではない。何らの縛りのない放恣の状態はそれだけでは何ものでもなく正に無である。人間は何もない無の空間の中で言い知れぬ生の無意味に怯え不安に苛まれるしかない。にも拘らず、人々は相も変わらず、この種の単なる放恣でしかない何らの縛りのない「自由」を求める。

 しかし、そもそも何の制約もない勝手気儘な振舞いを貫き通すなどということが、世に現実としてあり得るのであろうか、実際に可能なのであろうか。答えは否であるに違いない。どこかで不自由の制約の壁に突き当たるのが常ではないかと思うのだ。

 では、思うように望むところの「自由」を得られぬ時、人はどのような行動をとるのか。多くの庸人はその虚無感、徒労感を忘却せんとして、目の前の仕事や細やかな享楽に避難し一時的に逃れるのが大抵であろう。
 しかし、ここで敢えて言うならば、受刑者は、この虚無に覆われた環境下にあって望む結果を無理にでも実現しようとして、法を逸脱した行動に出たと評し得ることもできるのではないかと思っている。あるいは現実から逃れこれを忘却すべく、欲望のままに一時的な享楽としての犯罪行為に走ったと言える場合もありそうだ。いずれにしてもこれらの行動選択が正当性を認められる要素は一つもない。

 もう理解したのではないか。
 多くの庸人が「自由」の意味についてそう観念している、放恣たる性質の「自由」という状態は、そもそも社会においては存在しない全くの観念論に過ぎないものなのである。ありもしないものを求めて、その叶わぬことに焦慮し、虚無感と徒労感に苛まれ、当てもなく彷徨しているのが現代の日本人の姿であると言わねばならない。

 もう一度言おう。本来の意味の「自由」とは「自律」そのものなのだ。人格的自律が不十分で精神の未成熟な未成年者の「自由」は、パターナリスティックな制約を受けることが限定的にとはいえ容認されているのは、「自由」即ち「自律」である故である。
 自らのことは、自らが内において確立した価値の主軸・規範に則って、決せられねばならない。これが「自由」の本旨であって、無方針であることが「自由」ではないのだ。つまり、自らがある価値に従って自身を縛ることが、即ち「自由」というものである。それだけ「自由」というものは高尚なものであって峻厳なものなのである。

 福澤諭吉は「独立の精神のない人間は、必ず他人をあてにする。他人をあてにする人間は、必ず他人の思惑を考える」とする。他人の意思を左右され、これに阿る人間の心は「自由」なものとはならない。
 福澤は言う。「独立とは、自分一身のことに責任を持ち、他人の厄介にならぬ精神をいうのである。すなわち、自分で物事の善し悪しを判断して、適当な処置を執りうる者は、精神的に他人の厄介にならぬ独立の人といえる。」    

 「独立の精神」とは「自律」そのものである。「独立の精神」を有さない者は「自由」にはなり得ない。何でも他者に寄り掛かり、自らの足で立てない人間は「自由」を得ることはできない。自らの選択について、世間はこう考えるという実体のない空気のようなものに阿る他ない世人は、「自由」とは無縁の存在である。

 


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