小説「獄中の元弁護士」(18) 「これは弁護士の怠慢です」
新庄は共同室の畳を見つめながらぽつりと呟いた。
「僕はやっていないんです。」
そう言うと更に目線を下げて口から息をふうっと吐いた。決められた位置に置かれた小机の前に座り、漫画週刊誌を眺めていた同室の受刑者が驚いたように顔を上げる。
「裁判では否認したのですか。」
「はい。」
「罪名は何ですか。」
「窃盗です。」
「何を盗んだということになっているんですか。」
「テレビとか家電製品です。」
「やっていないというのはどこまでが違うということですか。訴状に公訴事実の記載があったのを覚えていますか。」
「はい。勿論。」
「その公訴事実のどの部分が事実と違うということになりますか。その窃盗行為を行ったという場所には訴状記載の日時にはいたのですか。」
「それはいました。」
「それはいたんですか。」
「はい。いました。でも、僕は車の中にいたんです。」
「車の中ですか。」
「はい。地元の北山という先輩から車を出してくれないかと頼まれて、自分の2トントラックを出して上げたんです。」
新庄は普段、車両持ち込みで配送の仕事をしていた。
「そうです。指定された場所に行って、北山さんを拾って言われるままに一緒に移動しました。到着後は、皆が荷物を持って来るまで運転席で待機していました。」
「そこに、皆がテレビ等の家電製品を運んで来たと。現場にいたのは何人ですか。」
「僕以外に三人です。」
「北山先輩以外も知っている人間ですか。」
「知りません。北山さん以外は名前も分かりません。」
「荷物は段ボール箱の中に梱包されていたのですよね。」
「はい。」
「中身はどうして知ったのですか。」
「事前に北山さんからテレビなどの家電製品を運ぶからと聞いていましたし、荷物を車に積むときにさすがに車を降りて手伝いましたから。」
「もともと荷物がある場所には行かずにずっと車の中で待機していたのですか。」
「そうです。」
「荷物はどのくらいの量だったのですか。」
「荷台の3分の2くらいでしょうか。」
「そうすると先輩たちは何度か往復したのではないですか。」
「勿論、そうです。」
「それでも、新庄さんは車の運転席を離れなかった。基本的には。」
「はい。それでいい、そうしていてくれということでしたから。」
「元々荷物があった場所には、だから行っていないと。」
「そうです。台車だけお貸ししました。」
「新庄さんはその運搬作業はどういう性質のものだと思っていたのですか。」
「いや。あまり深くは考えていなかったんです。」
「ふむ。言われた場所から言われた場所に車で荷物を運んだだけということですか。」
「そうです。」
「ちょっと軽率でしたね。」
「…。そうですね。」
「では、警察が来た時、驚いたでしょう。」
「驚きました。何事かと思いました。」
「新庄さんには窃盗の実行行為の故意はなかったとそういうことですね。」
「そうなんです。全く認識していなかったんです。」
「警察でもそう供述したのではないですか。」
「しましたが全く聞く耳を持ってくれなかったんです。」
「その先輩がどのように供述していたかは取調べの段階で知ってはいましたか。」
「取調べをした刑事さんは、はっきりとは言ってくれませんでしたが、僕の言っていることに対しては北山さんはそうは言っていないぞという感じで責めて来ました。」
「弁護士の取調べ時の対応はどうだったんですか。どんなアドバイスをしたのでしょう。」
「いや、それなんですが…。」
新庄は言い淀んだ。そういうことか。菅田は大体の予測をしながら答えを待った。
「最初一回は来てくれたのですが、僕が供述調書を取られるまでの間の取調べ中には全く来てくれなかったんです。」
「被疑者国選の先生ですか。」
「はい。最初、当番の先生を要請して一度来てくれたのですが、その後は夏休みだからと言って2週間くらい来てくれませんでした。」
「否認の趣旨はお伝えしたんですよね。」
「やってないんですとお伝えしました。」
「窃盗した物を運んだという認識はなかったと伝えた?」
「はい。伝えました。」
「それでも夏休みだと言ってすぐには対応してくれなかった?」
「そうなんです。」
菅田は溜息をついて押し黙ってしまった。眉間に皺を寄せて口を真一文字に固く結んでいる。しばらく沈黙が続いた。新庄は菅田の言葉を待っている。
やがて菅田は新庄の目をぐっと睨むように捕えて口を開いた。
「警察、検察という捜査機関は一度走り出すと止まらないものです。間違った方向に行こうとするのを止めるには、起訴前の対応が大事なのです。その期間で弁護士は一切対応をしていないわけですよね。」
「はい。」
「しかも北山という先輩も取調官に迎合して、おそらくは新庄さんに不利な供述をしている。」
「そうです。公判前に知りましたが、僕が知っていたのではないかという言い方をしているようでした。」
「ふむ。繰り返しますが、刑事事件の対応においては、起訴前の弁護活動が一番大事なのです。僕が弁護人だったら、すぐにその北山という先輩のところに『弁護人になろうとする者』という資格で接見に行って、本来ある事実関係について共通の認識を作っていけるように働きかけますね。その弁護士は北山さんに会っていないでしょう?検察官にはどうですか?」
「聞いていませんね…。」
「本来、検察官に直接会って、公判の維持が難しいかもしれないと思わせないといけないわけです。これは弁護士の怠慢ですね。後出しのようですけど、はっきり自信を持って言えます。新庄さん、もし僕があなたの弁護人であったら、あなたはここにはいなかったでしょうね。」
「僕もそう思います…。」
「あなたは運が悪かったと言わざるを得ない。しかし、ひどい話だ。」
尤も、菅田はこうも思った。
(そんな程度の弁護士の方がむしろ多いかもしれぬ。)