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「幽囚の心得」第20章                                   切腹の精神と作法(自殺論)(7)                                                 「太虚において生死は一つである」

 人間というものは、立派に生き、立派に死なねばならないのだ。

 大変な愚行を犯した私だが、向後「立派」を常としていかねばならぬと心に誓う。
 「聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、企て及ばぬという様なる心ならば、戦に臨みて逃ぐるよりなお卑怯なり。」
西郷南洲もそのように言うのだ(『西郷南洲遺訓』)。
 
 我々受刑者のような世の底辺に堕した人間が人間として再生を果たすには、凡俗に追従して世間並となることを目指すのでは全く足らない。「立派」な人間に成らんとせねばならない。「聖賢」と成らんと欲しなければならない。笑うなかれ。それが真実だ。
 「立派」な人間の心性とは「死生一如」の精神である。生と死を明らめ、生死の境を無くさなければならない。
 
 支那事変で戦死した軍神杉本五郎中佐もその著書『大義』において次のように述べている。
「萬人齊(ひと)しく千古の大疑となすは死生なり。宗教乃至学問の極致は死生秀脱にあり。」
「心身放棄の達人に生死なし。不死永生(えいしょう)、眞(しん)に無生死(むせいし)の神佛と謂ふべし。」
 
 死は生の重要な一部であり、人生に脈絡を齎すものである。死の意味を探究することによって初めて、生の意義を理解することができる。人間は、死というものを受容し、これに向き合って生きなければ、人生の有意味性を得ることは出来ない。死を無視し、敢えて見ないようにする人間は死に対する恐怖や悲嘆から逃れることは出来ない。死ぬことを怖れ、これを忌避する者は、本来の意味で生き切っては来なかった人間だと言わねばならない。

 存在であると共に非存在であり、生であると共に死であるという絶対的実在を想念し、これと一体になることによって初めて死の宣告から解放される。死を意識しつつ、死を超える大いなる存在に一体化する。
 修養の要諦はこのような生死の達観にあるのだ。

 「此心を一所に安立せしめ、何物か来るとも少しも騒がず、如何なる事が生じても少しも驚かず、寂然不動の地位に置いたならば、何をか悲み、何をか喜ばむだ。」
 不動の心を養う。修養を積みこの境地に近付くなら、我々は生命の危機、その終焉の時においても、「寂然不動」、「人生の妙趣を味ふて、日々是れ好日、天地長(とこし)へに春なるを得む。」
仏教学者である加藤咄堂氏はそのように述べる。

 大塩中斎(平八郎)も、究極の道徳的価値の源泉である、限界も形もなく、感覚を超えた宇宙の根元、即ち「太虚」において生死は一つである、自らの心をこの「太虚」に同一化させる「心太虚に帰す」ことがその信ずるところの死生観であった。
 「聖賢は則ち独り天地を視て無窮となすのみならず、吾れを視ては以て天地と為す。故に身の死するを恨みずして心の死するを恨む、心しせざれば則ち天地と無窮を争ふ。」

 心が澄んで天地と一体であれば、身体の死は恨み悲しむほどのことではないのだ。
 修養に心を向かわすことのない生ほどその生の主体はこれに執着するが、これは何と見苦しい様であるか。我々の学ぶべきは先哲、先賢の思想にこそあって、無学な大衆の駄弁にはない。我々は純一無雑に真理、真如を求めるのだ。そしてこの真理、真如は我々に当然のように実行を促す。思想とは必ず実践を伴い、これと一体化するものだ。世に溢れる実践を伴わぬ思想様のものは真の思想とは言わぬ。それは凡俗の駄弁に過ぎぬものである。
 
 我々は我々の行動が結果として思想と矛盾するものとなってしまったとき、思想を貫徹する為に時に死を選ばねばならぬときがある。それが己れの思想に全責任を負い、己れの生を全て引き受ける生命の正しい在り方だ。切腹はそのような真の思想の体現である。

 有意味な人生の形成を怠ける世人の後塵を拝することを是としない心、そのような心性にあるならば、受刑者こそが世人よりも真理に近い生き方をしなければならない。死生一如、常住死身、そして切腹の思想と覚悟をもって爾後の人生を生き切ってみよ。本書で最も伝えたい一言はこれだ。


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