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「幽囚の心得」第22章 死刑廃止論(1) 「死刑に賛成する者は自ら人を殺す当事者となることに承諾を与えたという自覚を持たねばならない」
イタリアの法学者・啓蒙思想家であるチェーザレ・ベッカリーアは、刑法学上不朽の名著『犯罪と刑罰』において、以下のように強く申し述べる。
「人間が同胞を虐殺する『権利』を一体誰が与えることができたのか。」
「風紀を温和なものにすることを目的とする法律が、死刑の如く野蛮行為をそれ以上増やしていいものか。」
「人殺しをいみきらい、人殺しを罰する総意の表現にほかならない法律が、公然の殺人をする~なんとばかげていはしないか?」
我が国においても、日本国憲法は個人の尊厳原理の下、人間の生命の尊重に至高の価値を置いている。この人間生命の重さ・価値に一切の例外など存するものではない。基本的人権の尊重を憲法上の大原則とする国家自身が人権の源泉である人間の生命を奪うということは憲法の拠って立つところの根本規範に悖る明らかに矛盾した行為であると言わざるを得ない。
『アムネスティ・インターナショナル日本』(第64号、2020年5月)の「死刑存廃国と存置国リスト」によると、「法律上、事実上死刑を廃止している国」は144ヵ国、「死刑を存置している国」は56ヵ国と世界の3分の2を超える国が死刑制度を廃止している。「死刑を存置し、継続して死刑執行している国家」は、国連加盟国193ヵ国(2017年10月時点)のうち十数ヵ国に過ぎない。国連は1989年、「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)」(B規約)の「第二選択議定書(死刑廃止条約)」を採択し、すべての加盟国の批准を促している。
しかし、日本は1979年に「人間の尊厳」及び「生存権(生命権)」を中核とした普遍的価値の共有を内容とする「自由権規約」について批准していながら、この理念をより具体的なものとした「第二選択議定書(死刑廃止条約)」については受け入れず、国連人権委員会による再三の勧告にも拘らず、死刑廃止に向けた施策の実行を怠り続けている。
政府は、国連人権高等弁務官事務所に対して、「国民世論の80%までが死刑存置を支持しており死刑廃止は時期尚早である」旨回答しているが、これに対し、国際人権委員会では世論は「人間の生命の不可侵」を左右するものではないとして、こうした日本政府の政策判断の理由自体について疑義があることを伝えている。
内閣府大臣官房広報室が令和元年(2019年)11月に行った世論調査(対象1826人)によると、死刑制度の存廃について「死刑もやもをえない」と回答した人が80.3%、「死刑は廃止すべき」とした人が9.7%であったという。
私はこの数字は質問の仕方に問題が存しない結果であるならば、日本人の人権意識の欠如と民主主義の未成熟を如実に表していると思料するのだ。いわゆる御上意識で制度の設計と構築、そしてその実行に関して全く当事者意識を持ち合わせてはいない。これは言いづらいが、直接の被害者遺族であってもそうは変わらないのではないだろうかと思う。
治者と被治者の自同性を本質とする民主主義の下では、国会における議決は国民意思と同一の性質を有するものであって、死刑制度の存続は、御上である第三者的な国という存在が決めるのではなく、国民意思が決したことになるのだ。つまり「死刑もやむをえない」と回答した80%を超える人々は人を殺す当事者であることに承諾を与えたということである。もし、そんなつもりでなかったなどと回答する者がいる者がいるのであれば、それは見識に著しく欠けていると言わざるを得ないし、極めて軽率且つ無責任な態度・姿勢をもって人を殺してよいという重大な許諾を為したということになる。戦後日本人の意識はあらゆる場面において、このようにどこか甘く幼稚なところがある。