小説「獄中の元弁護士」(20) 捲れていない事件
工場に配役されて数か月が経ったある日、菅田は自身の所属する生産班の班長の安部という受刑者からこう告げられた。
「おやじに言われたんだけど、菅田さん、シール機の練習をしよう。」
“おやじ”とは担当の刑務官を指す刑務所用語だ。
生産班である1斑で行っていた作業は、乾き物を中心とする菓子類を定められた量だけ秤で計量しながら袋に詰めて、シール機を使って封をするというものであった。そのシール機を扱う作業をしろというのだ。
既に久々に自分の無器用さを思い出していた菅田は躊躇はしたものの、刑務作業においてやりたくないからやらないという選択ができるというのもそもそも違うと考えていたので、これを唯々として受け入れた。
「そんな難しくはないですよ。ただ機械を通してシールするだけだから。」
菅田が言葉では承諾しながらも、心のうちで逡巡するところがあるのを感じたのか、安部はそう言葉を添えた。
ただ菓子の袋の口を機械に横に通してシールするだけ。その通りだ。しかし、その通りがそううまくはいかないのだ。シールの仕方が曲がったりすれば、それは再シールの係に回される。材料を多少でも咬み込んでしまえばそれは不良品となる。大体、どのようなときにうまくできて、どのようなときに失敗して曲がってしまうのか最初はさっぱり分からなかった。そういうことは安部は教えてくれない。自分ができる人はうまくできない人のその理由が分からないのだろう。「うーん」とただ唸って首を捻っている。
受刑者の中にはいじめっ子気質の人間がわんさかいる。ここぞとばかりに嫌味を言ったり自分が優位に立とうとする対応をしてくる。まるで中学生のようだ。
シール機を掛けている菅田の前に用務者の指山という男が立って、菅田の作業の様子を凝視している。用務者というのは、工場の作業全体を統括し補助をするいわば執行部のような存在でありまた雑用係でもある。特別に選ばれないとなれないので、担当の刑務官にそれなりの評価をされた者のはずである。用務者はその業務の性質上、工場内を移動することが比較的に自由だ。今も指山はわさわざ菅田の前に誰の指示にもよらず移動して来たのだった。
「菅田さんさあ、もっと早くやってくれないと溜まって来ちゃって他の班にも迷惑が掛かるんだよねぇ。あのさぁ、自分がさぁ、出来ないと思ったらさぁ、自分からおやじにそう言いなよ。辞めますってさぁ。」
「それは成田さんがそう言っているんですか?」
「いや、そうじゃねぇけどさぁ。」
「別に自分で希望したわけではないし、成田さんがそう言うなら辞めますよ。」
「いや、自分で判断してそうしろって言ってんだよ。」
「刑務作業でこれをやれって言われたら担当の刑務官にやめろって言われない限り、自分はやりますよ。」
(あんたに雇われちゃいねぇんだよ。)
菅田は心の中でそう呟く。指山は不満そうな表情を浮かべながらその場を後にした。
(あぁいう奴を選んじゃいかんな。成田さんも。)
確かに菅田は無器用だったし、実際に他に迷惑が掛かる時もあったろうと思う。
(しかし、出来ないことを努力して出来るようにするのも刑務作業の意義に合致するはずだ。)
菅田はそうした制度趣旨に則った正論が自己擁護にもなってしまうことを苦しく感じていた。
(早くマスターすることだ。)
刑務作業では菅田が得意とする圧倒的な時間を掛けての鍛錬が叶わない。限られた時間で皆同じ条件の中での練習しか出来ない。菅田には頗る不利な状況だ。
今日もまた検査班の人間が誰々は再シールが何件、不良品か何件とシートに記載し皆に公表している。
(まだまだだな。くそっ!)
菅田は顔をしかめながら自室に帰った。
共同室に帰ると新庄が徐ろに菅田に話し掛けて来た。
「菅田さん…、明日、僕、調べが入りました…。」
「えっ!」
「警察が来るって担当に言われました…。」
「まだ、起訴されていない事件とかがあったんですか?」
「実は捲れていないものがあったんです。」
捲れていないとは刑務所用語あるいは警察用語で、捜査当局に発覚していないという意味だ。
菅田は顔をしかめた。
「まぁ、自分は弁護人でもないけど、相談するときは全部洗い浚いに話さないと弁護士も十分には働けないし、よい結果を得られませんよ。」
「すみません…。」
新庄はそう言うと大きく溜息をついて塞ぎ込んでしまった。