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「幽囚の心得」第11章                 「葉隠精神」を錬磨せよ(8)

以上、「武士道」を構成する各徳目を縦覧してきたが、詰まるところ「武士道」は生命燃焼の仕方を説く理であると言ってよいだろう。封建制度なき現今においても、「武士道」は人間は如何に生くべきかという究極の命題に対する回答を用意している。それは「義」の為に生きるという国民精神の有り様を示す指導原理として、日本人である我々の心底「大和魂」の精髄として生き残っている。
 そして、この「武士道」の精神の根本は実践躬行にある。武士は行動を旨とする。吉田松陰先生の有名な歌に「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」とあるが、よくこの日本の活動精神の有り様を表していると言える。

 実践躬行をし生命燃焼を果たすためには、人間の内に蔵する大なるエネルギーを要する。日々の修養の源泉となるような熱情が存しなければならない。そして、この熱情を発する為には行動の理念、思想が確立されていなければならない。思想は覚悟であり当然に行動を伴うものである。行動なき思想は思想とは言わない。

 『葉隠』には、「武士たる者は武勇に大高慢をなし、死狂ひの覚悟が肝要なり。」とある。行動を成就させるためには、我こそがその大事の為の役割を一身で背負わねばならぬとの大高慢と熱情がなければならぬ。
 「兎角武士は、しほたれ草臥れたるは疵なり。勇み進みて、物に勝ち浮ぶ心にてなければ、用に立たざるなり。」
 再び、三島由紀夫の訳を引用する。
 とにかく武士というものは、しょげかえってくたびれた様子をしているのは駄目なので、勇猛突進し、すべてのものに勝ちまくるような気持ちでなかったら、役に立ちはしない(『葉隠入門』三島由紀夫(新潮文庫))。

 我々受刑者は確かに蹉跌を来たし牢に繋がれた。しかし、自己の再生を成すには消沈していては全く駄目だ。卑屈になっていても駄目だ。斜に構えて格好だけ付けていても駄目だ。自らの有するポテンシャルを最大限発揮する気概を持たねば、再生など叶うはずはない。逆境にあり状況が悪い時にただ悄気ている奴輩など何の役にも立ちはしない。
 三島由紀夫は「モラルはできないことをできるように要求するのが本質である。そして武士道というものはそのしおれて、くたびれたものを表に出さぬようにと自制する心の政治学だった。」とする。
 逆説的だが、こう為すべしという行動はこう為すべしという心と志を育てる。武士道は形式美を重んずると言われるが、形式美を追求することが心を鍛え志を造成し熱情の発火点となる。臆病な言動は臆病な心を生む。

 「菅谷さんは心が落ち込むということはありますか。」と同衆の受刑者に
聞かれた。私の答えは「ほぼない。」というものだった。心が塞ぎ悄気返って放心し、過去ばかりでなく起こってもない将来をも含め不安に苛まれて、今為すべき事に力を尽せないのでは先の成功は見込めない。生命を燃焼し尽すことなど到底叶わぬものとなろう。
 私の心は弁護士業の中で更に鍛えられたのではないかと思う。弁護士は負の重荷を背負った依頼者がより良き人生へと歩を進めるように助力する先導者である。“妖怪”のような心の蘇生力と強靭な心、胆力がなければ真のプロフェッショナルとしての仕事は為し得ない。私は弁護士をはじめとする士(サムライ)業とはそういう仕事のことだと思う。

 心を強靭にするには肉体の永続を求め、これにしがみつくのは止めることだ。後生大事に身の安全のみを図るさもしい姿を晒さぬことだ。
 「常住死身」になれば、「生」は生き生きとしたものとなる。我々は逆境に屈することのない、高貴な精神へと心を錬磨していかねばならないのだ。

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