「幽囚の心得」第20章 切腹の精神と作法(自殺論)(4) 「刀によって生命を絶つことの信仰的満足」
最初の切腹は平安時代の大盗として有名な袴垂こと藤原保輔によるものと言われているが(『古事談』・鎌倉時代承久元年(1219年)撰せられる)、武士によるものとしては、鎭西八郎源為朝が第一号とされている(『保元物語』)。
保元の乱に敗れた為朝は捕らえられて伊豆大島に流される。しかし、為朝は「われ清和天皇の後胤にして八幡太郎の孫である」とばかりに伊豆大島を支配し君臨する。これに対し、朝廷は関東の諸豪に討伐を命じ、これに抗じ切れず為朝は大島の館で最期を遂げることになる。為朝は寄せくる敵の軍船に強弓一矢を与えた後、館に入り柱を背に立腹切りを行った。
「内に入り家の柱に後を当てて、腹掻き切ってぞ居たりける。」「此此より武士勇気を示さんがため腹を切る事始りしなるべし」(『安斎随筆』伊勢貞丈)。『保元物語』によると為朝が切腹により果てたのは嘉応2年(1170年)4月、33歳の時である。
武士による切腹は当初このように戦時において多く生まれた。大隅三好氏は『切腹の歴史』の中で「切腹が武士の自殺法として最も多く用いられたのは、勇気を誇示する武士に最も相応しい方法であったことと、刀を武士の魂とする彼等が、刀によって自己の生命を断つことに信仰的満足といったものを抱いていたためである。」とする。
勇気を誇示するあまりに武士の中には、割腹の上、腹中から腸(はらわた)を摑み出して敵に向けて投げつけるという剛の者まで現れた。
『太平記』に記された村上善光の切腹はその例である。村上義光は信濃源氏陸奥守村上義清の後裔で佐馬権頭の地位にあった。後醍醐天皇の北条氏討伐の為の元弘の変に護良親王に従い、吉野城に拠って戦うも戦利あらず、義光は一旦自刃の覚悟を決めた親王に対し、親王の着していた鎧装の下賜を乞い、親王の身代りとなって戦闘の上自死し、親王を落とした。
「只今自害スル有様見置テ、汝等カ武運忽ニ尽テ、腹ヲ切ンスル時ノ、手本ニセヨト云儘ニ、鎧ヲ脱テ櫓ヨリ下へ投落シ、錦ノ鎧直垂ノ袴計ニ、練貫ノニ小袖ヲ推袒テ、白ク清ケカレ膚ニ刀ヲツキ立テ、左ノ脇ヨリ右ノソハ腹マテ、一文字ニ掻切テ、腸爴テ檜ノ板ニナツケ、太刀ヲロクハへテ、ウツフシニ成テソ伏タリケル」
義光は腹を切るときの手本にせよと傲然と言い放ち、敵前で腹を一文字に掻き切った。
陸奥信夫荘司佐藤元治の子である佐藤継信、忠信の兄弟は共に源義経に臣事し、平家の討伐に功を立てたが、義経が頼朝に追われる身になるとその追手と戦い、吉野に逃げ込む。途中、横川覚範に襲われると忠信は義経を救うため、先に落として自らは踏み止まって戦い、漸くに難を脱すると義経の後を追い京都に潜入。しかし、頼朝方に発見され、文治2年(1186年)力闘の末自刃した。
忠信は、『剛の者の腹切るやうを御覧ぜよや。東国の方へも、主に心ざしも有り、ちんじちうようにも逢ひ、また敵に首を取らせじとて、自害せんとする者の為に、これこそ末代の手本よ。鎌倉殿にも自害のやうをも、最期の言葉をも見参に入れて給へ。』と申し、「念仏高声に三十遍許り申して、願以此功徳と廻向して、大の刀を抜きて、引合をふつと切って、膝をつい立て、居長高になり、刀を取りなほし、左の脇の下にがばとさし貫きて、右の方の脇の下へするりと引き廻し、心さきに貫きて、臍の下までかき落し、刀を押拭ひて打ちみて、『あ刀や、まうふさに誂へて、能く能く作ると言ひたりし印あり。腹を切るに、少しも物のさはる様にも無きものかな。此の刀を捨てたらば、屍にそへて東国まで取られんず。若き者ども、よき刀あしき刀といはれんこともよしなし。冥途までも持つべき。』とて、おし拭ひて鞘にさして、膝の下におしかくいて、疵の口を攫みて引きあげ、拳を握りて腹の中に入れて、腹わたをつかみ出し、縁の上にさんざんにうち散らし、『冥途まで持つ刀をばかくするぞ。』とて、柄を心もとへさしこみ、鞘はをり骨の下へつき入れて、手をむずと組み、死にげもなく、息強気に念仏申し居たり。扨も命死にかねて、世間の無常を観じて申しけるは、『哀れなりける娑婆世界の習ひかな。老少不定のさかひ、げに定めなかりけり。いかなる者の、矢一つに死をして、跡までも妻子に憂目見すらん。忠信いかなる身を持つて、身を殺す死にかねたる業のほどこそ悲しけれ。これも唯、余りに判官を恋しと思ひ奉る故に、これまで命は長きかや。これぞ判官の賜ひたりし御佩刀、これを御かたみに見て、冥途も心安く行かん。』とて、ぬいて置きたりける太刀を取って、先を口にふくみて、膝をおさへて立ちあがり、手をはなつて俯伏にがばと倒れけり。鐔は口にとゞまり、きつさきは鬢の髪をわけて、後にするりとぞ通りける。惜しかるべき命かな。文治二年正月六日の辰の刻に、終に人手にかゝらずして、生年二十八にて失せにけり。」(『義経記』)
この忠信の壮烈なる切腹は、文治5年(1189年)4月、藤原泰衡に反かれ衣川で切腹した源義経が「自害の刻限になりたるやらん。又自害は如何様にしたるを、よきと言ふやらん。」と尋ねたのに対し、部下が「佐藤四郎兵衛が京にて仕りたるをこそ、後まで人々ほめ候へ。」と申したことを受けて、切腹の手本とした。義経は忠信の切腹に習った。