見出し画像

「幽囚の心得」第14章                              自由論(5)

 「自由」の概念は多義的であるが、「権力からの自由」、「権力への自由」の性質を合わせ持つ概念として理解すべきである。

 フランス人権宣言第4条は、「自由は、他人を害しないすべてをなしうることに存する」とする。
 これは前者の「権力からの自由」概念に関し論及するものであるが、より本質的には、各個人の人格的自律を最大限尊重し、自律への干渉を基本的に許さないということを意味している。

 自由への干渉が許される、人権制約が正当化されるのは、原則として「他者加害」、即ち、人権相互の衝突矛盾を調整する原理の働くべき場面における「内在的制約」「外在的制約」の許容される場合に限られる。

 これに対して、「自己加害」の場合は、その人のためになるからといって直ちに干渉するということは原則として許されない。そうではあるのだが、それは人格的自律尊重の思想を根本とする故であるから、理論的に人格的自律が叶うことの想定が前提とされているのだ。
 それ故、人格的自律そのものを回復不可能なほど永続的に害する場合、人格的自律の価値を全うし得ないことが明確な場合には、例外的に「自由」への介入が認められると解される。いわゆる「限定されたパターナリスティックな人権制約」であるが、これは「自己加害」との関係において妥当するものである。

 「権力からの自由」の認められる本質的根拠も人格的自律にある。これは既に述べた「権力への自由」を基礎付ける自己統治の価値と通有する価値であるとも言える。
 「自由」においては、かほどに「自律」こそが、自分で自分を規定するという価値こそがその本質そのものなのである。

 「自由」について、何も抑圧もない最も楽な状態を観念することは正しい理解ではない。そのような意味での「自由」なるものは世に存在しない。そうであるにも拘らず、多くの世人はそのようにあらんと愚かな夢想をするのが常態だ。   

 私は刑事収容施設の中にあっても、他の受刑者に比して「自由」であり、心は解放されていた。それは人格の自律的尊厳の大切さを重く考え、その価値をより高めるために、日々精神を錬磨し修養に努めていた故である。
 「自由」とはそれを獲得するための所為において、より本質的には外的なものではなく頗る内的なものなのである。赤子のようにありもしない野放図な「自由」を欲して駄々を捏ねるだけでは何ものも得られず、心は逼塞するばかりである。

 私から一つ提案しよう。
 「自由」という観念自体、その一切を忘れ捨て去るところから出直さないか。そうでないと、易きに流れ、これまで誤って受け取ってきた野放図な「自由」観念への妄執から逃れることは永劫できないことだろう。繰り返すが、そのような都合のよい「自由」なるものは世のどこにもそもそも存在しないのだ。いつまでも甘ったれた性根を晒してそれを追い求めても、蜃気楼のように希望は消え去るばかりで、後に残るのは言い難い虚無感と徒労感のみである。世人の望む性質の「自由」など最初から存在しない。それは観念の世界の所産であり虚構でしかない。

 我々が為すべきことは、自分自身に対して自身で如何に制限を課し、自分を如何に縛るかということである。当然、それは自分がどういう人間でありたいかということと密接である。どういう人間でどう振舞うか、その内容によっては自らにとって過酷なことにもなり得るだろう。

 それでも私は思うのだ。自らの望む自分という存在を創造していく事は何と楽しいことであろうかと。
 ただ刹那にその時その時の欲望に従って行動するでは、それは禽獣の姿に等しいと言わねばならぬ。「自由」などというお花畑、楽土は存在せず、我々にあるのは「自律」のみである。
 近代法の下で個人に付与した各権利もこの「自律」を前提として保障されるものだ。「自律」の求めを拒むものはその制限を受けてしかるべきである。
 そして、「自律」の価値を高め、深化させていくには学問をせねばならない。学問をして自らの精神を磨かねばならない。それが「一身独立」の精神の意である。「一身独立」してこそ「一国独立」する。
 国をはじめとする様々な社会集団や地域社会というものは個人のアイデンティティの重要な構成要素である。個人が生まれ育ち暮らす共同体社会の示す価値は個人に負荷されており、その人らしさを構成する重要な部分を形成する。その価値は個人の自律的生の営みの基礎となる。「一国独立」から離れ全くの無関心を装うこともまた虚構でしかないのだ。人はこのような周囲からの負荷を付されており、これと全く無関係な個人というものは存在しない。この負荷によりある種規定され自律的生はこれを一つ基礎として成る。

いいなと思ったら応援しよう!