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「幽囚の心得」第20章                                            切腹の精神と作法(自殺論)(5)                                                               「人の一生も士道もその仕上げは死に依って定まる」

 このような戦中における武士の勇壮なる精神を表す切腹の数々には感服せざるを得ないが、その中でも、私が特に印象に残り、その武士としての心根の在り方に感涙に咽ぶ思いがするのは、毛利輝元の臣、高松城の守将清水長左衛門宗治の切腹である。史実そのものではなくも、吉川英治氏の『太閤記』からその物語を追おう。

 羽柴秀吉の軍による水攻めに四方満々に囲まれ孤立した高松城。毛利の宿将小早川隆景、吉川元春が大軍をもって救援に駆け付けるも如何とも救いの手を伸ばす策がない。両士は宗治に一時、羽柴軍への降伏も已む無しと伝えるが、宗治は仁慈の籠った命に礼を述べつつも、高松城が全中国の要衝であることから、なおも籠城することを決意する。
 その後、和睦の折衝あるも、毛利側は忠臣である宗治の自刃が条件とされていることからこれを拒否、たとえ 中国全土を失うとも忠義無比の宗治を殺すには忍びぬと固く臍を決める。毛利家の鉄則は百万一心だというのである。
 しかし、僧恵瓊(えけい)からこの状況を聞いた宗治は、「やれ今日は何たる吉日。有難い仰せを承わった。」「かくまで微臣を庇うて給わる御主君に報わでやあるべき。この上は、我だに切腹なせば、御和談も成り、旁々、主家の御名にも傷つくことはあるまい。」とむしろ大きな歓びであるとした。
 己れの一死が城中五千の命に代わり、且つ毛利家を武門として傷付けることなくその滅亡を救うものとし、喜んで生害するというのである。

 城主清水「宗治、その兄月清入道、難波伝兵衛、近松左衛門を乗せた小舟が水中の城門から漕出で、総構を出離れ沖に出る。舟は秀吉から贈られた木の目も真新しい新造船で、櫓を操るのは与十郎という月清入道の下僕、彼は今日のお供を願ってさくや落髪し経惟をつけ染衣の姿になっていた。」「秀吉の近習堀尾吉晴は秀吉の命によって検視役として、秀吉の本陣蛙ヶ鼻の前に小舟を浮かべて待っていた。堀は彼等に秀吉の優諚を伝え秀吉からの酒肴を贈る。」(『切腹の歴史』大隅三好)

 以下は、『太閤記』による。「かくて、堀尾より樽肴を送りしかば、扨も心有かな有かなとおし返し完悦し、月清二三酌にて長左衛門にさしければ、是も数盃を傾け、難波殿へ恐侍るとてさしぬれば、近松に一礼し、其後金吾へさしてけり。長左衛門中のみせんとて、心よげに請し処に、月清誓願寺の曲舞を謡ひ出けり。聊おくしたる顔色もなくつねの如し。かくも酒も過しかば、月清入道我より始んと、おしはだぬきて、矢声して腹十文字にかき切りてけり。残る三人もきらよく腹を切、今此褚上に其名香しく残にけり。かゝる処に、与十郎某は、月清老人が馬取にて有しが、縁を赦し、一所懸命の地をあたへられしなり。しで三途の道しるべせんとて、心よげに切腹してけり。茂助其心ざしを感じ、四人の首に相添、秀吉へ掛御目候へば、何も仁義の死を遂し者の首也。四人之首を三方にすへ、与十郎が首をべちにすへよと仰けり。六日の朝、堤を切候へば、水滝になつて落行声千雷のごとし。かくて城を請取、杉原七郎左衛門尉を入れをかる。」

 再び吉川英治『太閤記』に還る。宗治の臣、年頭の白井与三左衛門は主を追い自らも屠腹しつつ、「さてさて、又なき御武運にお会いなされましたもの哉。人の一生も生涯の士道も、その仕上げは、良くも悪くも死に依って定まるとか申しますが、今日の御生害は現し身の人をも数多生かし、また御自身の一命をも末代に生かす。お慶び申さずにいられませぬ。」と述べた。

 何という美挙であろう。この清水宗治の振舞いこそ真の武士によるものと言うべきではないか。そして、このように自らの役割を認め身を捧げても、他の為に、世の為に、これを全うする精神性こそ日本精神というものだと思うのだ。人間というものは本来こう生きなければならぬ。


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