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「幽囚の心得」第15章                          愛国心(2)

 ところが、戦後日本の有り様、否、もしかしたら明治維新以降の日本の有り様と言うべきかもしれないがこれを見ると、日本人が上記のような自己充足の心を徐々に失ってきているのではないかということは思わざるを得ない現状がある。戦後において、よりそれが顕著であると言えるのは確かにそうだとも思う。
 GHQ(総司令部 General  Headquarters)によるWGIP(War Guilt Information Program)は当のGHQでさえ、ここまで長期において日本人の精神に影響を残すとは予想しなかったろう。
 日本人は、西洋的「近代」の盲信者となった。民主主義、自由、平等、そして進歩主義、現代の日本人はこれらの価値に何らの疑いも有していない。ここにおいて最も問題なのは、それらの価値のそれと認め得る根拠、存立理由に対する考察が極めて表面的で不十分なことである。日本人が心の自己充足をなし得なくなっている原因は文化的価値を専ら外発的に西洋に求め、それに何らの思索もなく盲従する浅薄さにある。その心理の内奥には未だ西洋社会への劣等意識とある種の恐怖心が根付いてしまっているのではないだろうか。

 軍隊を奪われ、武器を奪われ、自らの身は自らで守るという当たり前の道理さえ放棄してしまうと、最終的には、「自分が存在している」という意識すら希薄になるのだ。江藤淳は言う。「何をやっても『ごっこ』になってしまうのは、結局、戦後の日本人の自己同一性が深刻に混乱しているからである。」

 繰り返し述べているが、論理の出発点は論理では説明することはできない。民主主義、自由、平等という概念も何故それがよいのか、突き詰めると論理によってその価値を全て説明することはできない。個が尊重され自分らしく生きられることが何故よいことなのか。言葉によって論理的に説明することはできないだろう。
 幾時代を経て人々が積み重ねてきた価値判断の結果によって、ある一つ処に集積した慣習的・伝統的価値がそこには確かに存するのである。
 それ故、日本人が心の充足を得るために必要なことは、日本において慣習的・伝統的価値と言えるものは如何なるものかを思索する態度であると言うことができる。日本人が何を信じ何を怖れ何を愛し何を敬い何を願い何を望んで来たかを知ることが何よりも必要であると思う。一体、日本人が本当に望み、求めてきた理想とされる生き方とは如何なるものであるか。普段考えているようで全く深くは考えてはいない、当たり前に日本人であるところの自分のルーツの深淵に分け入ることこそ我々が心の充足を得るために為さねばならぬことである。自身を正しく測る基準は西洋という外部に持つべきではなく、自分自身の歴史の中から見出していかねばならない。

 この点、私は民主主義や自由主義、基本的人権の尊重、平等といった、いわゆる普遍的と言われる価値はこれを大いに認める立場であることを念の為述べておくが、それらの思想形態、制度が実質的な意味を全うし、実際にその意図するとおりに機能するには、盲目的にその外形的な部分についてこれを導入するだけでは駄目で、その趣旨に遡った上で、当該適用対象であるところの日本社会の性質と実情に鑑みた「当て嵌め」がなされなければならないと思料するものである。
 その意味では人道や人権といった普遍的な価値というものを専らに優先していけば、国家間の連帯は可能であるとするソリダリズム(連帯主義)は理想論としては魅力的なものがあるけれども、やはりやや一面的で安直に過ぎる考え方であると言わざるを得ない。プルラリズム(多元主義)の下、専制国家による人権の抑圧の事態も容認せよと言っているものではもとよりそうではなく、要はその国その国によって、国家のエゴイズムと個人のエゴイズムとの調和の在り方というものは、その文化的背景によって異なってくるということである。


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