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「幽囚の心得」第13章                人権論(5)

 日本国憲法は「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」(第11条)としているが、これは人権がいかなる場合においても無制限に保障されることを意味しない。

 人権は各個人に保障されるものであり、個人は他の個人と何らの接触なく生存していくは困難である以上、当然に人権というものは他者の人権との関係で内在的制約を受ける。このことは人権の在り方を理解する上で殊の外重要である。自己に人権が存するように他者にも人権が存する。人間は他者と接触しながら社会において生きている以上、人権と人権の衝突する場面は当然想定されるし、その場合に自らの人権のみが絶対的に保障されその行使が許容されるなどという理屈は勿論あり得ないのである。他者の存在とその有する人権を想定する、このことは社会生活においていかなる行動選択を為すかという場面において、極めて大切なことであると言わざるを得ない。

 ところで、日本国憲法は第12条において、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責務を負ふ」とし、また第13条において、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とし、各人権には「公共の福祉」による制約が一般的に存することを明示している。しかしここでの問題は、その制約の具体的基準を示していないことである。

 もとより人権制約の根拠を「公共の福祉」という抽象的概念によってのみ可能と解すると、その基準は曖昧さから人権制約が容易に肯定される虞れが生じ、人権の保障は画餅に帰することになりかねない。そこで、更なる精査と基準の明確化が求められるものと言わねばならないのである。

 思うに「公共の福祉」とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であって、憲法の規定の仕方に拘らず、全ての人権に論理必然的に内在されているものである。そして、各人権の性質とその制約に必要とされる理由、制約の手段、程度等を勘案して、その制約が容認されるか否か個別具体的に決しなければならない。このような要請から、人権制約についての具体的な違憲審査基準としてこれを準則化すべきであるとして主張されたのが、「二重の基準論」である。

 「二重の基準論」とは、表現の自由を中心とする精神的自由権は自己実現の価値、自己統治の価値を有し、特に立憲民主政の政治過程にとって不可欠の権利であるから、経済的自由に比して優越的地位を占める故、この精神的自由を規制する立法の合憲性は、経済的自由を規制する立法よりもより厳格な基準によって審査されなければならないとする理論である。
 即ち、経済的自由に関する不当な制約は、民主政の過程が正常に機能している限りは議会においてこれを是正することもできるが、精神的自由が不当に制約されている場合は民主政の過程自体が傷つき十分に機能しない。それ故、裁判所がこれに介入して是正することで民主政の正常な過程を回復する必要があるのである。
 従って、人権制約の合憲性判定の具体的基準としては、経済的自由の場合は立法目的及び立法目的達成手段の双方について、一般人を基準として合理性が認められるかどうかを審査するという合理性の基準が用いられるのに対して、表現の自由を中心とする精神的自由の場合はより厳格な基準が適用される。

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