見出し画像

小説「獄中の元弁護士」(17)           「無償の相談業務」

 工場の担当刑務官の成田は菅田に対し、自分の事件や素性、前職のことを同衆である受刑者には話すなと忠告してくれていたが、菅田はあまり神経質にそれを守っていこうとは思っていなかった。
 おそらく成田はその境涯の特異性から、他の者にいじめられるような扱いを受けてしまうのではないかと心配してくれたのではないかと菅田は思っていた。
 しかし、弁護士であったことは菅田の人格と一体不可分の性質のものであったし、覆い隠すことのできない自分の一部だと感じていた。それは他と接触することで、自然、相手に伝わるべきものだった。それにそもそも、
(別にそう知れようとどうだというのか)
という思いも菅田にはあった。
 菅田はプロの交渉人だった。つまらぬ人間の相手をするのは億劫ではあったが、それも刑罰の応報たる性質の現れと受け止めれば仕方のないことと考えることができたし、絡んでくる輩が仮にいたとしても精神的に弱くなるほど柔な人間ではなかった。むしろ精神的な強靭さでは菅田は自信を持っていた。
(精神がタフでない人間は弁護士に向かない。)
菅田はそう思っていた。
(小悪党に対する対応で汲々とする必要はない。)
 確かに、当初、自らの工場でのポジションを確立するまでは慎重に振舞おうとはしていた。今も奔放に振舞いを変えたわけではない。ただ慎重にし過ぎたことで、やや調子に乗って対応してくる人間はいたということはある。行動選択のすべてが成功したわけではないだろう。菅田にとっては、まあそれも想定のうちではあったのだが。

 いつの間にか、菅田は共同室の一番席に位置するようになっていた。刑務所は人間の入れ替わりが激しい。月に何人もの人間が出所し、何人もの人間が入所してくる。
 通常の入出所以外でも工場単位の人の動きについて言えば、施設内のルールに違反すれば懲罰を受けるし、そうなると極軽い違反の場合を除いて、ほとんどの場合は他の工場に移らされることになる。
 また、刑事施設には、受刑者の社会復帰のために職業訓練のプログラムが用意されている。これに応募して受かった者は、そちらの工場に移っていき一定期間経過後に元の工場に戻ってくる。
 共同室にいる者も順次単独室が空くとそちらに移っていく。日々そうした動きの中にいるから、施設内はいつも変化に満ちていた。変化が起こると接触する人間が変わり、また精神的な負担が増えるのは人間心理として当然である。しかし、ややネガティブな反応をする者があれば、菅田はこう言って励ました。
「施設では変化は前進だからね。」

 菅田が弁護士であったことは工場内では周知となっていった。しかし、成田が心配していたような暴戻不遜な事態は生じない。大体弁護士は職業の一つに過ぎない。特別に考える方が間違っているのだ。菅田はそうも考えていた。
 弁護士に対する相談事を抱えている者は施設にはたくさんいる。菅田の無償の仕事が生じる事態が当然のように訪れた。
 煩わしい事は勿論多くあった。受刑者は借金をしている者が多い。いつも同じ質問がなされる。
「どうしたら債務を逃れることができるか。」
「姓を変えることはできるか。」
「ブラックの信用情報は請求すれば消えると聞いたのだけど、どうなんだ。」
大抵はこの三つの質問が人を変えても繰り返される。
 彼らの前提は常に、自分にとって損なことからどう逃れるかということにある。菅田はその姑息さに辟易とした。また、受刑者以外にも昨今はよく見られる傾向だが、自分の都合のいい、耳障りのいい情報以外はなかなか受け入れようとしない。「そう聞いた。」とその考えに固執する。だから、刑務所内では出所不明の虚偽情報が流布されることになる。
 現代の日本は、損得勘定ばかりに依拠してものを考える小輩だらけになってしまった。刑務所はその縮図だ。

 菅田の共同室に新庄という新人が入ってきた。
 菅田は基本的に同衆に何をしたのかという詮索はしない。人それぞれに至る経緯は様々であって、それを聞かれたくない者もいるだろうと思うからだ。しかし、菅田が元弁護士と聞くと新庄はやや遠慮がちに自分がここに来た経緯を話し出した。何か、解決しなくてはならない問題を抱えているようだ。話を聞きながら、自然、菅田の顔は弁護士の顔に戻っていった。


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?