TRPGの議論で、人間性が結論になることの話
導入
めちゃくちゃ個人的エゴに満ちた話なのでまあ半ば雄叫びのようなものとして聞いてほしいのですが。
TRPG関係の諸問題に対して提示される1つの結論というかハウツーとして
「空気を読むことが大事です」とか「対話が肝要です」とか「楽しもうという心持ちが重要です」とか「グループ全体の盛り上がりが最も価値があります」とか、そういう人間性やコミュニケーション能力の話が結論としてよく出てくるなと思うんですよね。
人間性の話でいいの?という話
自分はこういう『道徳めいた』結論で話を終わらせること、あまり良いことではないのではないかと思っていまして。2つから3つほど理由を述べようと思います。
①そこで終わっちゃ身も蓋もないというか
まず1つめに、そういった人間性の話に行き着くと、それは個人それぞれの能力や努力に依存した問題であるとして、そこで考察や議論が止まってしまっていると考えています。
「問題のある人が人間性を高めてください」で突き放して終わり、ではあまりにも個人を苛む方向に寄りすぎではないかとも感じます。(ただ、これはこれで視点が偏っているかもしれないですね)
また人間性の改善や改心を求めること自体、人の内心の、容易には変えがたい部分に干渉するようなことではないかとも考えています。
さておきつまり、結論を人間性の話で括ってしまうと、問題の範囲が個人の領域に狭まり、問題解決に携わることのできる”手”の数が減ってしまうということが、1つめの懸念であります。
ただこの【問題の範囲を個人に狭めるべきではない】、という考えに対しては「人格的に問題のある人の介護は、プレイヤーの仕事ではない!」という反論というか一般的主張があることは承知しています。
しかし、人格面を理由にした拒絶を是とする風潮が絶対的なものとして強く広がり、人間ができていない輩はどこもかしこもお断り。ということが続いた結果、界隈全体を憎悪する、手のつけられない怪物が産まれて牙を剥く……という展開もありうるのではないかと危惧しております。
せめて心あるプレイグループ、あるいは猶予あるグループ、あるいは実力あるグループ、あるいは怪物になりかけたものたちによるグループが、さまよえるプレイヤーの安住の地となることを、赦していただければ幸いであります。
②TRPGは仲立ちとして使えるんじゃないか
2つめに、PCやシステムを間に挟むことで、コミュニケーション能力の差を補えるのがTRPGの良いところではないかというのが、自分の主張であります。
これについては実体験に基づくところが大きいので、具体的なエピソードを2つ挙げて話していきたいです。
リアル方面でTRPGのプレイグループにいたころのメンバーで、まあまあ困ったプレイヤーと言えなくもない人がいまして。大好きな作品のキャラをモチーフにNPCを生やしては自PCと延々絡ませたり、その人のPCが誤解と偏見から他のPCを敵視するシーンで止めどころを見失って暴走したり。
しかしこの人、GMやKPを担うと描写の緻密さや進行のスムーズさがグループ内でも特に秀でていて、安定したシナリオ回しに定評のある人でもあったのです。
言っててちょっと論旨からはズレた話な気がしてきましたが……その人物の問題点が係わらない形態でプレイできると、一方向の視点では気付きにくい良さが見えてきたりすることもあるのではないでしょうか。というお話です。
もうひとつは、オフラインのコンベンションにて出会った人について。あるいはその人に対する私のよくない誤解についての懺悔です。
当日に参加者および参加卓が決まる形式のコンベンションだったのですが、プレイヤー参加した卓に同席した方の一人のしゃべり方というか、挙動に若干の不安がありました。
自分は、大丈夫かなあこのセッション。となかば差別的な視点で心配していたのですが。いざキャラメイクからプレイを始めると、そのプレイヤーさんの提出したキャラクターシートはデータ的な纏まりがかなりよく、戦闘での立ち回りや運用もかなり上手くやっていたのをよく覚えています。
シナリオ中の発言は口数少ないキャラクターでしたが、その実力をもってPCを雄弁に語ることのできているプレイだったな……と今でも思い出します。
ロールプレイという言葉を原義的にとらえれば、それは「役割を遂行する」と翻訳することもできます。人格や表現といった数値化されない部分での役割だけでなく、データ面でその人の役割と強みを発揮することが許されるのもまたTRPGのよいところではないでしょうか。
さて、これら二つの経験談はTRPGのゲームとしてのシステマチックな側面が、コミュニケーションの不安を解消してくれた事例でした。
システムによるカバーアップを抜きに、プレイヤーのコミュニケーション能力を大前提として語るような行いは、不世出な素晴らしさを隠してしまうのではないかという反論が、主題である『道徳めいた』結論に対する本項の考えであります。
◯個人的エゴの話
あともうひとつあるのですが、この根拠は前のふたつと比べて個人感情的な部分が大きいです。つまり、自分自身が「人間性」のことで躓きまくってるクチなので、賛同したくないということであります。
恥の多い生涯を送って来ました。やれ空気を読むだの、やれ他者を尊重だの、やれ集団の喜びを優先だの。お恥ずかしながらそういった社会性しぐさをやろうとしてやらかして、あるいはやろうとも思えずやらかして、リカバリーの失敗まで含めてやらかしてこんにちまで来た身の上であります。1つめの主張について、偏りすぎていそうな視点で話したのは伏線だったのかもしれません。
2つめの主張では例として他人のことばかり話しましたが、もちろん自分の悪性や苦手分野もTRPGのシステムや性質によって補われてきた部分もあったと思います。
そういった「ルールや構造でプレイヤーの社会的技量をカバーする」考え方で設計されたシステムをよくやってきたが故に、やはりプレイヤーの人間的課題はシステムがサポートするのが良いだろう。と(やや古めかしく)考えているところはあると思います。
さて、このようなおよそ自力でヒトの形を保てない存在が、TRPGの諸問題で「いろいろテクニックや議論はあるけど、最終的にその人の人間性が問われるよね」という意見に賛同しまっては、まずTRPGから去るべきは他ならぬ自分自身であるというオチになってしまいます。
さすがにそれは勘弁したいので、こうして『道徳めいた』結論に対して色々な理由を考えては反論しているというのが、実のところ根元的な理由なのかもしれません。
おわりに:あるいは人間性結論に関する仮説
余談になりますが本稿を書きなぐっている時に、プレイヤーの人間性を重視するイデオロギーって少人数の固定メンバーでセッションするプレイグループを起源としているかもしれないな。と思いました。
長く顔を合わせ関係性を続けるからこそ、個人の人間性に由来する問題に気づきやすく、その人の課題ある側面に対して改善を求めやすいところがあるのではないか?と思います。
翻って、コンベンションやネットでのワンオフプレイが中心のプレイヤー群は、一期一会でそれっきりということも少なくないため、先述の2つめの主張のようにTRPGシステムの特長やGM側、プレイヤー側のテクニックによってトラブルや課題を解決してきた歴史があると考えています。
こちらの仮説の検証については、複数のプレイグループやコンベンション環境を一望できるような広い視点と経験のある方にお任せしたほうがよいかな。と無責任に今後の課題を提起しながら、吠え声を締めさせていただきます。
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