『古河蒼太郎の死をめぐる、悲しみとまやかしの午後』 (3)
賢人はひとり、ソファの上で前かがみになり指を組み合わせている。咲の心理は蒼太郎の死に捕らわれ過ぎだ、とあらためて考えていた。
「ねえ、咲?」
キッチンの内側で、咲はデカンタに溜まっていく琥珀色の液体をじっと眺めている。ついさっきまでの真剣さはどこかへ消え失せていて、両眼にあまり生気が感じられない。彼女は、うん? と薄っぺらい声で返した。
「蒼太郎が死んでしまってからこのふた月近く、俺も俺であいつの死と真剣に向き合っていたんだよ。高校生の頃、あいつはたいてい哲学の本を読んでいたけど、気が付けばミュージシャンのことを書いた本なんかもよく読んでいたりね、そういった些細なところを想い出したりもしてさ。去年、再会してから、昔のことだってほじくりかえすようにいろいろ喋っていたのに、ひとりで想い出しているとそれでもまだすごく懐かしいと感じるんだよ」
「私もそう。彼と付き合い始めてからだって、二人でいろんな話をした。想い出話も含めて。それなのに、蒼太郎といっしょに想い返した時よりも、蒼太郎が亡くなってから私ひとりであの頃を想い出しているときのほうが、なんだかずっと生々しくてリアルに感じられるのよ。不思議よね」
「確かにそうなんだよな。妙な話だけど、蒼太郎が亡くなってからのほうが、想い出の解像度が上がったような気がする」
「そういえば、ミュージシャン関連の本は最近も読んでいたみたい。秋の終わりころだったと思うけど、古本屋さんでベックの半生を綴った本を見つけた、って喜んでたもの」
咲はさっと洗って拭いた先ほどのカップに、落とし終えたばかりのコーヒーを注ぎ始めた。賢人はその姿を眺めながら、想い出の解像度ってどうして上がったんだと思う? と訊いた。咲は、どうしてだろうね、蒼太郎を求める力が増したからかな、と賢人を見ずに答えた。コーヒーの香ばしくて好い匂いが漂ってくる。
「実はそこなんだ。あのさ、咲。これから俺が喋ることは、俺が自分を見つめ直して気づいたことなんだけど、たぶん咲にも当てはまることじゃないかと思う。ちょっと聞いて欲しいんだ」
キッチンからテーブルに戻り、賢人と自分の前にコーヒーカップを置きながら、咲は、わかった、とまたダークブルーの平たいクッションの上に座り直した。
「おそらく、というか、ほぼ確かだと俺は思っている。どうして蒼太郎が死んでしまってからのほうが、想い出の解像度が上がったものとして感じられるのか。もともと、想い出ってあやふやで、こうだとは決めつけられないようなものだと思うんだ。なんていうかさ、想い出を中心に、蒼太郎、咲、俺が、その中心から伸びたそれぞれの長さのロープをつかんでいるイメージなんだ。それぞれの長さっていうのはね、その想い出へのインパクトの違いを表しているっていうかさ、強烈な想い出として残っている場合はロープが短いんだ。で、そんなロープをそれぞれがゆるくつかんでいる。ゆるく繋がっているわけだよ、想い出と。そして、そのロープの先に想い出があることを知っているから、その方向に注意を向けたり身体全体を向けたりして、想い出を見て感じとることができる。そうやって、想い出を共有している。それが通常の、想い出に対しての姿勢だと思うんだよ。ここまでは、いい?」
「けっこう独特な考えだね。ここからもっと混み入っていったりするのかな?」
「いや、これ以上複雑にはならないから、安心して聞いて。だけど、ちょっと傷つく覚悟はしておいて」
咲は背筋を伸ばし、まつ毛が弧を描いた眼をそれまでよりも大きく見開いた。賢人は、ちゃんと聞いてくれているな、と内心ほっとした。話を続ける。
「想い出の解像度が上がって感じられるっていうのはつまり、想い出から手元に伸びているロープを引っ張るからなんだと思うんだ。そうやって、想い出を引き寄せようと力をいれて、実際、自分のほうへ引き寄せている、綱引きみたいに。あるいは、ロープの先へと腕力だけで進んでいくんだ、そうやって想い出に近づいていく。だから、想い出との距離が近くなる分、解像度が上がる。どうしてロープを引っ張ったりするのかといえば、想い出を求めてしまうから。もともと想い出は、それぞれが共有しているもので、それぞれに対して配慮しながらゆるくロープをつかんでいるはずのものだった。それが、急激な欲求にさからえずに、自分だけ想い出に近づいてしまうんだ。そして、想い出を求めてしまうそのきっかけ、欲求を生じさせたのは、蒼太郎の死だ。あと、これは今思いついたことだけど、想い出には蒼太郎も繋がっていたのに、その蒼太郎が欠けてしまったことで、力の均衡が崩れたのかもしれない。そうやって崩れた均衡が、ロープをつかむ俺や咲の手にそれまでと違う手ごたえを感じさせて、違和感のために手に力が入ってしまうのかもしれない。なんてね。そんなところだよ」
咲は視線を横に流したまま何度も瞬きをしていて思案気だ。賢人は一口だけコーヒーを飲み込む。街灯が順々に灯りをともすみたいにして、その熱が胃へと降りていった。
「要するに、それは」
咲はやっと口を開いてそこまで言ったのだが、そこでまた口を閉ざす。言葉がまとまらないようだった。
「そうだよ。想い出はそれぞれロープをつかんだ地点からしか見えない。まあ、事実という面で言えば想い出そのものは同じ想い出だよ。だとしても、咲には咲の、俺には俺の、それぞれの見え方があるし、理解の仕方がある。さらにそんな想い出を、ロープをたぐって自分に引き寄せて見てしまったりするんだ。そうやって解像度の上がって見えた想い出をつぶさに眺めて、涙を流してしまう。それってどういうことか。もうわかると思う。きつい言い方だけど、結局は独りよがりということなんだよな。独りよがりな心持ちで想い出を眺めたのだから、その想い出は自分だけの解釈を持った想い出にすぎないのに、自分が思っている意味しかないものとしての、いわば個人的な想い出を、みんなが共有している想い出なんだと勘違いしてしまう。そういうことなんだ」
咲はまだ思案しているのだろう、すこし厳しい顔つきになっている。
「それで、話を進めていくけどね、蒼太郎の死を悲しむことも独りよがりということになるんじゃないかと思うんだよ。自分だけの解釈をしている記憶を元にして勝手なイメージを蒼太郎に当てはめてしまい、彼の死は悲しい、としているんだから。もともとの揺るぎない事実から自分の思うように生成した記憶も、そこからイメージを作り上げたのも、全てが自分なんだ。自分で作り上げたものを、悲しいと言っている。蒼太郎の死を悲しむ? そうさ、自分が彼の死をこの上なく悲しむために、演出までしているんだ。自分ではそれと気づかずにだけど。実際、悪意だって無いんだよ。だからこれは、突き詰めていくと、蒼太郎を失った自分が悲しい、ということにならないか。蒼太郎の死が悲しいんじゃない、蒼太郎の死に見舞われた自分自身こそが悲しいんだ。俺はさっき、想い出を辿って、味わい直して、蒼太郎のやったこと、言ったこと、姿や表情なんかを二人で懐かしもうって言ってしまったけど、考えてみるとこれは対症療法的な些細な効果しか得られないもので、根本から克服する方法ではないんだと思うんだよ」
「よくわからないな。自分を憐れんでいるだけっていうことなの? 私は蒼太郎の死を悲しいと思っている。それがそうじゃなくて、自己演出をして、そのために悲しむことになっているっていうの? 自作自演みたいに言わないで」
咲の強い言葉とは裏腹に、彼女の表情に表れた感情は乏しく、それまでの憔悴さえもがどうやら静止していることがわかった。それはまるで、十字路で呆然と、いま私はどこにいるんだっけ、と突然に見当を失ったかのように、そんな空虚さを咲は全身から漂わせていた。自分の感情の流れの、どこが上流でどちらが下流でといったような、自明のものとして知覚していたものが幻影だと気づかされたからだろう、と賢人は見てとった。
「無理もないことだと思うよ。人間はだれしも多かれ少なかれ、ほとんど無自覚にそういった傾向で生きている。俺も例外じゃない」
咲はますます青褪めていた。賢人は、彼女に気の毒なことをしている、と表面的な心理の層ではやましさを覚えていたが、それに勝る実感的想像のほうにこそ包み込まれるように支配されていた。その実感的想像とは、身体中を勢いよくめぐり続けている自分の血液は、咲を自分のパートナーにしたいという欲望の粒子を飽和近くまで溶かし込み貪婪さに充ち満ちていて、それを肯定している感覚だった。自分が思い、考え、行動している基盤にあるのは、己の渇きを満たすための欲望だという自覚が、否定されることなく芽吹いていた。
咲の口元がわずかにわなないているのを賢人は見逃さなかった。このまま放っておけば、咲は元の自分に戻ろうとする。そういう力が働くに違いない。変化してしまってはいけない、と元々の自分の状態へ引きずり戻そうとする自身の力が働くだろうからだ。心理的な弾性、と賢人は言葉を当てた。負荷を跳ね返して元に戻る力。対するように、心理的可塑性、と賢人は思いつく。力が加わったことで変形したそのままの状態でいること。咲への負荷が、可塑的に作用すると、咲の心理はこのまま元に戻らず、あらたな形をとったままになる、あるいはそれ以上にもっと形を変えていくかもしれない。弾性が勝れば、咲は元の心理に戻る。自分が与えた可塑的変化が弾性に負けないよう、賢人は、なにか手を打たなければ、ときつく眼を細める。瞳の色が暗く変化していることに、賢人自身は気づいていない。
「死は死でしかない。俺たちは、蒼太郎の死を都合よく弄んでいる。俺も、咲も、蒼太郎の死を、ああでもないこうでもない、と意味づけすることで蹂躙してしまったんじゃないだろうか。違うかい? それとも、凌辱したといったほうがいいのかもしれないか。咲、死は死なんだ。点のようなものだよ。もう意味づけするのは止めないか」
咲は涙を流す。混乱が増している、と賢人は考えた。咲の涙は止まる気配を感じさせないくらいの勢いで流れ出ている。彼女は口を小さく開くと、嗄れた小さな声で呟きはじめた。
「蒼太郎の死。死んだこと。死の意味って。わたしはそんなこと。死。蒼太郎の死。どうして。死は死でしかない?」
「死は死だ。そのままの意味になにも付け加えることはないよ。蒼太郎の死はただの死だ。死という状態に個性も個別性もない。死は死であるのだから、つまり、純然たる死を受け入れよう」
咲は頬を伝う涙をぬぐうこともしない。
「彼の人生が終わったこと、もう彼と関わり合えないこと、彼の考えを知ることができなくなったし、声すら聴けなくなったこと」
「純然たる死がもたらすものだよ」
「存在自体から醸し出されてくる、言葉にはならない感覚的な、蒼太郎独自だったものを、私はイマジネーションの中だけであっても再現するようにして感じていたいのに」
「死は、眠らせておくに限る」
「死」
「それが死だよ」
感情に深く訴えて止まない事実だった蒼太郎の死が、いまや賢人にとって深い意味をなさない事実になった。それはまもなく、咲も同じようになるはずだ、と賢人は考えている。もはや蒼太郎の死は、咲にも賢人にも作用しないし、影響を与えない。蒼太郎から咲を奪いとるために踏み込むタイミングはここだ、と賢人は構えた。
「自分の気持ちが平板に感じられてくるわ、あなたの言い分を聴いたせいで。あれだけ感情に訴えていた蒼太郎との想い出が、もう遠くへ過ぎ去っていったみたいに感じられる。望んでいないのに」
咲の鍵盤を容赦なく叩き続けた、蒼太郎の死が司る指先が止まったのだ。賢人は、話の流れをうまく運べたようだ、と思った。
「純然たる蒼太郎の死、というものを守るためなんだ。俺たちは、あまりにも誰かの死を混然とさせる。好き勝手に、色を塗る。自分の見たい場所に置く」
二人で話をしていたさきほどまで、蒼太郎の死は生きていた。それがどうやら、今しがた、死んでいった。二人の間で死が死んだことを、それに成功したことを、賢人は感じ取っていた。純然たる死とは、解体された死であることを、賢人はわかっていた。そして、解体への過程は、賢人が意欲的に望んで道筋をつけたものだった。
「死はたった今、死んでいった。ようやく本来の死の状態になった」
そのときの咲の様子が、彼女を自分になびかせようとしている賢人にとっては、よからぬ印象へと変わった。敷いた道を逸れていることを瞬時に察知する。
「死が死んだ?」
彼女の視線が宙を彷徨うように、揺れている。勝手な意味をもたされた死が意味から解放され、これまで自身が意味を持たせていたことを理解した咲はきっと、諦めるという手段を選び、だんだん気持ちを落ち着かせ、平常に戻っていくはずだと賢人は予測を立てていた。蒼太郎が死んだ日から今まで、乱れ続けた咲の気持ちの足を地面につけさせる。その重力を賢人はこの場でもたらす自信があったのだ。だが、目の前で見てとれる彼女の様相は、予定とはかなり異なってきている。咲は言った。
「もっと死を見てみて、賢人。死をじっと見てよ。感じるものは無い?」
死という一点だけを見つめる。それはまさに点なのだ、と納得する。なにも生み出さなくなる、なにも吐き出さなくなる、そうなることへの地点。だが、そうであっても、賢人にも感じられるものがある。それは、賢人にとっては逸らしてしまったほうがいいものだ。無視を決め込んでしまったほうがいいものだ。だが、厳然として賢人にも感じられてしまっている、脱落感のようなもの。
「そ……、喪失の、」
賢人は意味を知らない言葉を片仮名で喋るみたいにしてその言葉を吐きだした。心理の穴だけがある。前を向いたとしても、死が解体されても、穴だけは歴然としてそこにある。
「そうよ。死が意味を失って、喪失感だけが重く残っているのよ。純然たる死って賢人は言ったけど、それは不完全な死なのよ。死はたぶん、点ではないの。私たちが生きているっていうその仕組み上、点としての死は、不完全で、近寄るべきではない危険なものだと分類されるような死なんじゃないの?」
手遅れだ、と賢人は思った。敷いた道は崩れ落ち、賢人が見せた死は、画用紙に描き殴った「穴」の絵のようになった。それは、死という特異な地点。その人の生命が抜け落ちる地点。穴に底はあるのか、それとも穴の奥には行く先があって、どこかに続いているのだろうか。行く先があるのならば、蒼太郎はまだ旅をしている。だが、賢人は蒼太郎の旅を許さなかった。そういったことではなかったのか?
涙の止まった咲がこれまで見せたことの無いような、苦悶に醜く歪んだ顔つきになっている。賢人の感情は浮遊しだした。どうやら咲の表情からだけではなく、五感ではっきり把握できていないなにがしかの影響を受けているようだった。腹の中で、不穏に沸き立つような動きを感じる。
「咲の言う通りかもしれない」
「賢人の言ったことはある意味ではまやかしで、でも、もう二度と引き返せないところまで連れて来られてしまったような気がする」
その場から、言葉はもう、なにひとつ出てこなかった。
その土曜日の午後はこうして過ぎていった。賢人は咲の部屋を出て、駅まで歩き、地上から地下へ潜っていく南北線に乗って帰路につき、自室でこれまでの時間を反芻しながら、自分の感情や考えを省みた。おそらく初めから失敗していたのだと思った。
翌日は日曜日で、出勤する日だった。かなり客の来店があるだろう特売日で忙しくなるはずの日だ。
あのとき感じ取ってしまった穴の重力は薄らいでいる。働いている最中には感じられないほどになる。それに、くたびれてやっと退勤し、帰路、外を歩いているときなどにもまだ、職場にいたときの活気づいた気持ちが火照って残っている影響下にある。だが、アパートの自室に着くと穴は、賢人の背後で待ちわびたように開きだしている気がしてならない。
賢人は咲と、同じ穴を感じ取り、そして心のどこかに宿してしまった者同士として引き合い、再び語り合う日がくるのかもしれなかった。あるいは反発し合う、もしくは、双方が共に興味を失っていくものなのかもしれなかった。賢人の計画は消え去ってはいなかったが、これ以上、時が来るのを待っても仕方がないような気がした。
それから幾日か経ったある日の帰り道の途中、たまに寄り道する書店に寄って、昨年発刊されて話題になった村上春樹の新作長編を買って読んでみようかと賢人はぼんやり考えていた。久しぶりに彼の作品世界を味わいたい気分になったのだ。この今の気分から抜け出すには、彼の小説のほかに無さそうだから。
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