本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る??
「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」という言葉に触れたことはありますか。これは、人間の性質についてのひとつの達観的な見方だと思います。
この言葉を聞いたときに、比較的「実はけっこう大変な家庭」で日常を過ごしている僕は、自分が他人からそういうふうな目で、そういったところに焦点を合わせられて見られてしまう可能性を想像して、ちょっと疲れた気分になりました。
なぜなら、自制心や自律心の鎧を自分で作り上げて日々、自分なりにがんばって生活しているなかで、なにかのはずみでそんな鎧が壊れてしまうこと、そしてそのときに生身が見えることを期待されている気がするからです。さらにいえば、その生身に好奇の眼差しによる期待が注がれている気がしてきます。「おまえは善人か? それとも悪人か?」
もっと言うと、「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」は、誠実なまま、善良なまま、という人がいたとしたら、その人がほんとうに大変な状況にいるかどうかがわからないと思うんですよ。悪い性分が見えたときに、「本性が出たね」とされがちではないのか。
どうしてそう考えるのかいえば、「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」の言葉と一体になった好奇や期待は、「大変な状況になって出る本性 → 悪いもの」という係り結び的な捉え方に偏りがちになっていそうな見方に思えるからです。すぐに口をついて出るように準備された「ほら、見たことか」の気配が「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」の裏にコバンザメのように貼りついているように感じるのは、僕だけでしょうか? そうじゃなかったとしても、別の面で、「本性を悪いものにするんじゃないよ?」というプレッシャーが込められているようにも解釈してしまう、これも僕だけでしょうか?
ここで紹介したい格言があります。
この格言を踏まえたあとで、「ほら、この人の悪い本性が知れた」という時、それをどう捉えるか。
はたして、大変な状況下にある人が悪い性分を見せたとき、それは本性だったのでしょうか。ゲーテの言葉が正しいとすると、それは本性ではなく、その人が大変な状況下にあることでのある種のなんらかの事情で、自分の意思とは関係なく、悪いふるまいばかりしてしまう、ということにはならないでしょうか。
なのに、ゲーテの格言「人間が本当に悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる。」のほうが当を得ていて、でもこのことがよく知られていない状態だったら(多くの場合、そういった状態にありますが)、あの人の性根・本性は悪かったということにされてしまいます。恐ろしいことに、本性に結びつけてしまうと、悪くなかった頃のその人の価値まで真っ黒に書き換えられてしまいますよね。
「本性」という言葉は、その人全体を塗りつぶす言葉で、とどめを刺す強烈な武器にもなり得るんだな、と以上の思索を経て警戒の念を持った次第です。
「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」
と、
「人間が本当に悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる。」
追いつめられた人間が悪い行いを見せたときのこの二つの捉え方を、あなたはどうお考えになりますか?