猫背で生きるのをやめた(い)
わたしはひどい猫背だった。
思い返せば、胸が大きくなり始めた小学生の時にはもうその片鱗が現れていた気がする。
以前書いたnoteの記事をたくさんの”同胞”たちが読んでくれて、感想をくれた。
感想の多くは賛同で、想定していなかった反応なんだけど、かなりの数の人が「自分の今までを振り返って泣いた」と言ってくれた。
実はわたしも書きながらちょっと泣いた。
記事の最後にわたしはこう書いた。
記事にはかかなかったけれど、これは、中学生のわたしが誰かに言って欲しかった言葉だった。だってわたしは、わたしの胸が忌々しくって、切り取ってしまいたかったから。
実際、わたしの右の二の腕と胸の脇には、カッターでつけた傷がある。
無印のカッターでこの分厚い脂肪を切りとろうなんて、今ならば絶対に思わないのだけれど、あの時のわたしにはそれしか道がなかった。痛すぎて痛すぎて、まあ痛すぎて、その傷は今のわたしにとってはありがたいほどに小さいのだけれど。
今でこそ、わたしは自分の胸が大好きだ!と声高らかに言える。
でもあの時のわたしには無理だった。
大人になってTwitterをはじめて、わたしと同じように思う女性がいてそれに救われることを、あの時のわたしに言ってもわたしは信じないかもしれない。
猫背なのは誰のせい?
わたしが猫背だった理由はいろいろあるけれど、一番辛かったのは前も言った通り、同性である女性からの揶揄や差別だった。
いや、わかってるよ?
わかってる。
Xやら Yやらの染色体が一緒だからって、味方だとはかぎらないよね。
でも、セカンドレイプをしてきたのも、わたしが好きできた服を「いやらしい」としたのも、わたしの主張は女らしくないから男に違いない、としてきたのも、「味方」だと思っていた属性からだった。
わたしは男性から向けられる性欲は、わたしがとっても強くなったので跳ね除けられる。
「ばっかじゃねえの?お前に見せるためじゃなく、わたしが好きな服着てんだよ。」って言える。戦える。たぶん概念上の頸動脈くらい切れると思う。
やっとやっと強くなって、凍らされた心も誰かの優しさで溶けてきた、と思ったところにおきた「たわわ騒動」
わたしの意見を呟けば、踏み躙られる尊厳。
わたしの意見に賛同しているのが男性が多いから、わたしの主張は「価値のないもの」とされる。
わたしの意見が「多くの女性」と違うから、わたしは女性ではないとされる。
わたしが着る服が露出が多いから、わたしは性被害にあったことがない「幸せな人間」だとされる。
なんだここは、地獄か?
多様性はどこに行ったんだ。「名誉男性」であるわたしに多様性は適用されないのか。
それでも胸を張るのは誰のため?
Twitterでこの手の意見に晒されると、カッターを握りしめたあの日を思い出す。
自分の胸が際限なく大きくなることに恐怖を覚えたあの日を。
大きくなればなるほど過激化する「暴力」から逃げ出したかったあの日を。
でもある時気がついたの。
猫背でいればいるほど、隠せば隠すほど、人は好奇の目を向けるし、どろどろに濁った言葉をぶつけてくるって。
だからわたしは隠さない。
だからわたしは胸を張る。
あの時のわたしのために。
だからといって、胸を張りたくないあなたにも胸を張れ、とは言わない。
隠さず表に出せ、とも言わない。
絶対に言わないよ。
でもあなたが着たい服を着られるように、あなたが胸を張って生きていけるように、わたしは先に行くね。
「差別をなくすためにお前が礎になってあきらめろ」と言われるのはぜってえごめんだけど
差別をなくすためにわたしが先に戦うからね。
「わたしの体はわたしのもの」
こんな簡単なことでも、意識をピンと張っていなけりゃボロボロに朽ちた木のように崩れ落ちてしまう世の中だからこそ、わたしは根拠のない「巨乳表象への配慮」に反対するよ。
目指す先は同じでも、そのやり方じゃ割りを食うのは目に見えているから。
ねえみんな、胸を張って生きていこうね。
絶対にめげずに生きていこうね。
切り落とせなかった胸を抱えて、あなたと一緒にわたしは明日も闘うよ。
愛を込めて
大親友
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