時間の使い方を考える。
新型コロナウイルスにより、我々の生活環境に訪れている変化。
「Stay Home」という合言葉により、自宅待機を余儀なくされている。
口々に聞くのが「あっという間に一日過ぎてゆく」ということや「なんか、無駄に時間を浪費している気がする。」といった事。
時間の浪費。
よく、「時間はお金では買えない。」と何物にも変えれない、とても崇高な存在として崇められる。
そのくせ、我々が生きていく中で選択している方法は、「時間」を対価に「賃金」を得ることだったりする。
意識の高い人たちは、一分一秒を無駄にするまいと、睡眠時間を削ってまで自己の能力や知識を高めたりするわけだが、果たしてその先に何を見出しているのだろうかと考えたりする。
一分一秒と人は死に近づいていく。人だけではなく、神羅万象のものがそうであり、何かの始まりは終わりを意味する。
思春期を通った人間であれば「人はなぜ生きるのか」という無意味な難問にぶつかるわけだが、その答えは、いたって単純であり、時間とのつながりも見えてくる。
人はなぜ生きるか。
我々が「生物」であることから、答えは一つしかない。
「種を残すこと」
もっと言えば、種を残して生き残っていくことである。
人の根幹は、脳ではなく腸(消化器官)なのは生物の進化の過程から導き出せる。
人は二足歩行に進化し、手を使うことができたので脳が大きく発達した。
脳が発達した結果、コミュニケーション能力であったり創造性、こうやってPCの前に座って何かをしたりできる力を獲得したわけだが、それに付随して考えることもできるようになってしまった。
種を残す意味で、考えることというのは必ずしも必要とはいえない。
将来のことだったり、死に関することであったり。身近なことなら今日の晩御飯であったり。
考えることというのは、必ずしもポジティブな面だけではなくむしろネガディブな側面さえある。
・・・・なんか壮大な感じになってきたので取り返しのつかない場所にまで来てしまった気がする。
脱線につぐ脱線で、目的地とは大きく離れた場所にたどりつきそうな気配なので、本来の話に戻そう。
生きている中で、無駄になっている時間なんて一秒も存在しないということ。
何もしなければ何もしないなりの時間の使い方がそこに生まれる。
本人がそれでいいと思えばそれでいいし、時間の使い方で後悔する必要も無い。
時間は経過するものあって使ったり使われたりするものではない。
たとえるなら、呼吸と似ている。呼吸も何の気なしに行っているわけだが、呼吸の仕方で後悔をしている人が果たして何人存在するだろうか。
時間はどんどん経過していくが、別にそこに生産性や効率性を追及したり浪費で悩んだりする必要はないという事だ。
時間の使い方で悩んでいるのなら、その悩むことでさえ時間がどんどん経過していることを気づくといい。
どうせ結局は死ぬのだから焦る必要はないのである。
・・・なんとなく書き始めた文章が、思いもよらない結末の文章に。
この薄っぺらい文章を読んで5分くらい時間が経過したことは言うまでもありません。(書くのは1時間もかかったかも。)
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