生まれたときも死ぬときも、みんな「はだか」
残念ながら、自分は生まれたときのことを覚えていない。
どういう感じで産道を通って、どんな人が周りにいて、
その人たちはどんな歓喜の表情をして、だれにだっこされて、
どんなふうに第一声を発したのか、
残念ながら何も覚えていない。
中の下か、下の上くらいの生活レベルの家にやってきたようなので、
決してセレブな扱いを受けたわけでもなく、
田舎の病院でごくごく普通に処置をされたのだろう。
こんな曖昧な、というよりほぼ皆無に等しい記憶の中で、
ただひとつ確実に断言できるのは、
自分は生まれたとき、「はだか」であったということだ。
もちろん自分だけがこうだったという特別なことではなく、
世界中のあらゆる赤ん坊は、みんな「はだか」だった。
衣服だけではない。
脳みその中の知識や知恵などといったものもゼロだし、
ことばを発することもできず、ただ泣くだけ。
首を持ち上げることもできず、手はただ握るだけ。
特に意識をすることもなく自然と心臓が動いて、口にしたものを飲み込む。
そんな完全に無防備で、天使と表現されるおさない一つの生命は、
ごく一部の悲しい事情を除いて、
周りから無償の愛で慈しみの感情を惜しみなくふりそそがれる。
だって赤ん坊は自分に何もしてくれなくても、
ただそこにいるだけで、かわいいから。
ーーー
ここ数年、「ガチャ親」という言葉が飛び交うようになったようだ。
生まれた子供は親を選ぶことができない。良い親の元に生まれることができるかどうかは運次第である、ということなのだろう。
はじめは純真無垢な心で、「赤子をひねるくらい」簡単にこわれてしまうか弱いからだも、
これからひとつひとつ、色々なことを受け入れ身につけていく。
たしかに親との出会いは、とても計り知れない大きな影響を受けることになる。
親からしてみれば、そんなことを言われたらたまったもんじゃない。
自分だって本当に喜ばれている親なのか、自信をもつことができない。
それまでのどうにもできない運命があったという親もいるかもしれないし、
その形に満足している親だっているにちがいない。
どんな親であれ、子どもにはただただ生まれてきてもらうばかりである。
一方子どもの側から見ると、確かに選択の余地はないのかもしれない。
金銭的に裕福な家庭で、物質的にも教育的にもなに不自由のない環境かもしれないし、
生活に余裕がなく家計を支えるのに精いっぱいで、親とほとんど時間を共にできない境遇かもしれない。
愛情に満ちあふれた生活もあれば、まったくその逆の家もある。
家庭というものに入ることができない場合だってある。
そんないろんな生活のスタイルがある中で、子どもたちはいろんなものを与えられ吸収していくことになる。
そして不慮の事故や病に逢わなければ、いっぱしの社会人になって年をとっていく。
ーーー
それなりの大人になってそれまでの人生を振り返ってみると、
ある程度の地位や名誉や財産を手に入れていれば、
それはそれまで周りに関わってきた人たちや環境のおかげであり、
運にも恵まれてきたのは大きな要素なのだが、
自分のたゆまぬ努力がここまで築き上げたのだと考えるのかもしれない。
運も実力のうちで、その実力をつけるためにがんばったのは自分なのだから、と。
だから手に入れた地位や財産は自分のものだし、
その高さ・大きさが自分というものの評価の物差しになる、と。
しかしである。
人生も終わりを迎え、この世を去るとき、
つまり死ぬとき、
いくらお金を手に入れたからといっても、いっしょにあの世に持っていくことはできない。
元○○といった肩書も、時が過ぎて知り合いもいなくなったら、
そんなのはなんの価値もなくなってしまう。
つまり死ぬときも生まれたときと同じく「はだか」であるということだ。
そんな最期を迎えたとき、その人の評価、価値とは、
どういうものをいうのだろうか。
そしてその人生はどう総括するのだろう。
別に有名人として後世に名を残したいわけではない。
もちろんこんなことを考えられるのも、
それなりの資産や名誉を残せたらのはなしだが。
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