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幸福の傘
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バイト先のファミレスには、その日、多くの客が訪れた。春先に奈保が週三回働き始めてから、最も忙しい一日となった。ホールスタッフに混ざり、テーブルの間を動き回っていた店長も、厨房に料理を取りに来て奈保とすれ違う時、嬉しさと困惑の入り混じった顔で「こんなのは、なかなかないよ」と言った。
最初のうち、忙しく働きながらも、奈保には充実感を覚える余裕があった。××君の件が大きく作用していた。片付けた後のテーブルを拭きながら、この繁盛ぶりも黄色い傘のご利益かもと考え、まさかと打ち消して、そっと苦笑することもあった。
ところが夕方の休憩前には全身が重くなってきた。昨夜きちんと布団で寝なかったことが、より早く疲れを呼んだのだろう。××君の効果も薄れ、いつの間にか思い出しもしなくなった。
黄色い傘には、感謝する代わりに、どうかもうお客様を来させないで下さいと、不届きな祈りを捧げる始末だった。
夜になって、奈保はオーダーを一つ取り間違えた。海老フライ&コロッケ&ハンバーグセットを、海老フライ&メンチカツ&ハンバーグセットで受けてしまったのだ。初めてのミスだった。
まぎらわしいメニューを作るからだ。ネチネチと文句を言う子連れの若い母親に頭を下げながら、奈保は真っ先にファミレス本社の商品開発部に責任転嫁した。
また、海老フライ&コロッケ&ハンバーグセットを運び直している途中では、ドリンクバーの前で騒いでいる子供達のせいにした。あんた達がうるさいから、気が散るのよ!
十時過ぎ、勤務を終えた奈保は従業員用の裏口から店を出た。じっとりとした空気が疲れきった体を覆った。
と、頬にぽつりと感じて空を見上げた。二つ目、三つ目の雨粒が落ちてきた。
傘持ってこなかったけど、ま、いっか。本降りにはならないでしょ。投げやりに予測した時、黄色い傘が脳裏を掠めた。直後に亜美に関すること、秘密のことや、バイトが終わったら連絡すると約束していたことなどを思い出した。店にいる間は亜美の顔すら浮かばなかった。××君の件で浮かれていたし、何より忙しかったから。目の前の仕事をこなすので精一杯だった。休憩中はスタッフルームで長机に突っ伏していた。何も考えられなかった。
ミスしてから後は、そればかりにとらわれた。あの母親の顔が目に浮かぶ。陰険な目付き。よく動く真っ赤な唇。注文を間違えたことと、あらためて料理が出て来るまで待たされたことへの苛立ち、ついでに奈保には全く関係ない日頃の鬱憤もまとめてぶつけてきたに違いない。
奈保は舌打ちしたいのをこらえた。ファミレスの制服に着替える時しまったままだったスマホを、ショルダーバッグから取り出した。
電源を入れると、すぐに電話がかかってきた。亜美からだった。あまりのタイミングの良さにびっくりした。丁度かけようとしていたから手間が省けてよかったと思うはずが、普段滅多に電話を使わない亜美だから、舞衣の時と同じで、どうしたんだろうと不安が先に立った。着信画面をしばらく眺めてから、奈保は電話に出た。
……何?
薄紙を無造作に丸めるような音。
奈保はスマホを耳に強く押し当て、数秒後、耳から離してスマホを見つめた。
音は、すすり泣きだった。
全身に鳥肌が立った。
亜美……なの?
奈保はスマホを耳に戻した。すすり泣きが言葉に変わった。
「奈保、ねえ、どうしよう……私、どうしたら……ごめんなさい……ごめんなさい……」
しゃくり上げながら続く、震える声。間違いなく亜美だった。
どうしようって、何?ごめんなさいって何なの?
ねえ亜美、と話しかけようとした時、亜美の口調が一変した。
「来る、来るよ、どうしよう、ねえ、ホントどうしよう……来た、来た、イヤ、イヤー!」
金切り声が鼓膜に突き刺さった。驚いて奈保はスマホを遠ざけた。それをまた耳に当てなおすと、ゴボリという得体の知れない、胸が悪くなるような音が聞こえた。続いてガチャリと、何かがスマホにぶつかったような音がして、あとは静かになった。
画面を見てみると通話は終わっていた。さっぱり訳がわからなかったが、気味が悪いことだけは確かだった。手が震えていた。揺れる画面を見つめたまま、奈保は電話の意味を理解しようと、疲労と動揺でともすれば停止しそうな思考回路を懸命に作動させた。
ただの悪ふざけ。××君のことが漏れ伝わった結果の腹いせの嫌がらせ。どれも納得できる答えではなかった。悪ふざけにしては迫真の演技だったし、腹いせなら亜美は回りくどい嫌がらせなどせず、ストレートに怒りをぶつけてくるはずだった。電話さえ使わず、面と向かって。
結局、亜美の言葉を正直に受け止めるしかなかった。つまり、亜美の身に何か良くないことが実際に起こったということだ。ごめんなさい、と言っていた。来る、と言っていた。誰かに襲われたのか。
奈保の顔から血の気が引いた。
けど、もしそうなら、電話するのは私じゃなくて警察なんじゃないの?そうだ、警察。警察に電話しよう。
が、奈保はすぐに考え直した。警察に、どう説明すればいいのかわからないことに気付いたからだ。友達から変な電話がありました、としか言えない。いたずらじゃないの、と疑われたら、絶対に違いますとは今のままでは言い返せない。
そうだ、確かめなければ、亜美に電話して。
こんな簡単なことに思い当たるのに、ずいぶん時間がかかってしまった。奈保は自分に腹が立った。やはり気が動転している。「落ち着いて、落ち着いて」と呟きながら、まだ震えている指を動かして電話をかけた。
「ただいま電話に出ることができません」という録音メッセージが流れた。「ピーという発信音の後に」のところで切ると、再びかけた。結果は同じだった。奈保はスマホを尻のポケットにねじ込んだ。次の決断には時間がかからなかった。
亜美のアパートへ行ってみよう。
最寄りのT駅に向けて、奈保は走り出した。
亜美がアパートにいるかどうかはわからない。でも、二日酔いで弱っていた亜美は、今日一日、外へは出ないような気がする。それに、あの電話。あれには、部屋の隅に追い詰められた怯えのようなものを感じた。外じゃない。
自身の行動を懸命に正当化しながら、奈保は走った。雨が強くなってきた。
きっとなんでもない。ただのいたずらだ。部屋に行けば、どう、びっくりした?なんて言って、亜美は出迎えてくれる。私もなかなかの女優でしょ、なんておどけたりして。そしたら私は怒ってやる。亜美、悪ふざけもいい加減にしてって。それから謝る。ごめん、亜美、実は亜美に内緒にしとこうと思ってたことがあるって。だから亜美、お願い、無事でいて。
そばの車道をタクシーが、奈保を追い越し走り過ぎて行った。奈保は後ろを何度も振り返りながら走り続けた。次のタクシーは見えない。
不意に黄色い傘のことを思った。
そう、あれがあるじゃない。幸せの黄色い傘が。だから大丈夫。きっと大丈夫。
奈保は祈るように繰り返しながら、走り続けた。
T駅前のロータリーが見えてきたあたり、まだ行き交う人も多い居酒屋やコンビニが並ぶ通りで、奈保はタクシーをつかまえることができた。後部ドアが開くと同時に、自分や亜美が住む町の名前を運転手に告げながら乗り込む。ジーンズの生地が腿に張り付いて座りにくかった。
途中、もう一度電話してみた。亜美は、やはり出なかった。前髪を伝って雨の滴が、スマホの画面に落ちた。
<次回へ続く>