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幸福の傘


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 三号館三百一番教室の一番後ろのドアに、息を切らして奈保が辿り着くのと、一番前のドアを倫理学の教授が開けるのとは、ほぼ同時だった。途中のほとんどを走ったかいがあったと、ほっとしながら奈保はドア近くの席にへたり込んだ。室内は空調が効いているが、汗はすぐには止まらない。

 およそ一時間前、奈保は身震いして目覚めた。エアコンもテレビもつけっ放しだった。半開きの目を向けた画面にはテレビショッピングの番組が流れていて、片隅に時刻が表示されていた。
 奈保は跳ね起きた。画面を見据え、まだ動きの悪い脳みそで懸命に考える。大学までの道のりにかかる分を差し引いた、残り時間ですることと、しないこと。
 その結果、シャワーや朝食を切り捨てた。化粧落としと歯磨きだけをすると、目についたTシャツとジーンズに着替える。勉強道具やら、午後のバイトのために絶対必要なメイク道具やらをバッグに詰め込んで部屋を飛び出した。
 薄灰色の空で、濃い湿気が体を包んだ。また降るかも、と思いながらも傘を取りに戻る余裕もなく、奈保は外階段を駆け降りた。

 百人程度が入れる教室は、二人掛けの机が三列に並んだ細長い部屋で、いつもどおり七割がたが埋まっている。奈保は、いつも自分達が座る窓際の真ん中よりやや後ろあたりを目で捜したが、亜美の姿はなかった。尻のポケットからスマホを取り出し、LINEでメッセージを送った。「二限開始」「倫理アウトだね」「二日酔い?」
 何の気なしに選んだ二年生前期の科目だった。初回講義の冒頭で、大失敗だったとわかった。今年から原則として無遅刻無欠席を単位取得の条件の一つとします、と教授が告げたのだった。聞いた瞬間、亜美は顔色を失った。奈保も憂鬱になったが、半分は亜美を心配してのことだった。亜美には無理だ、きっと。
 それが的中してしまった。前期の終わりも間近に迫った、ここにきて。
 教授自身が前列から、出席カードと呼ばれる小さな用紙を配って回り始めた。奈保は教授から促されるより先に、前かがみの姿勢で前の方の席に移った。呼吸は落ち着いてきた。汗に濡れたTシャツが冷たい。バッグを隣の席に置き、中からペンケースを取り出した。
 亜美が二日酔いなんて、と奈保は思った。初めてではないか。どれだけ飲んだ翌日でも、辛そうにしているのを見たことがないのに、と勝手に二日酔いだと決めつけていた。
 よりによって倫理の日になんて、ついてない。
 教授が出席カードを置いていった。幸せの黄色い傘のご利益も、さすがに及ばなかったか。奈保は亜美を少し気の毒に思いながら、カードに名前を書き始めた。

 講義が終わって、奈保は廊下を歩きながらLINEを確かめた。亜美からの返信はなかった。さっき送ったメッセージは未読のままだった、
 奈保は電話をかけてみた。コール音を聞く間、「二日酔いだよね」と、自分の予想をそっと口にしてみる。
 出ない。諦めて切ろうとした時、つながった。
「もしもし」
 誰が出たのかわからなかった。
「亜美?」と、奈保はおそるおそる訊いた。
「んー」と相手が答えた。どうやら本人ではあるらしい。ひどいしわがれ声だった。
「今起きたの?」
「んー」とは言ったものの、まだ目が開いていないに違いない。
「大丈夫?二日酔い?」
「んー」
「しょうがないなー。倫理、すっぽかしちゃって。昨日調子に乗って――」
「ちょっと」
 亜美が弱々しく遮った。
「あんまり、がみがみ言わないでくれる?頭、割れそうなんですけど」
 奈保は盛大に溜め息をついてみせた。
「今日、これからどうすんの?ずっと寝てる?」
「んー、多分」
「そっか。私、これからバイトだから。終わったら、また連絡するね」
「んー、わかった」
 予想が当たっていたことに安心して、奈保は玄関に向かった。学食に寄るつもりだった。朝食を抜いたにも関わらず、食欲はなかった。が、バイトのことを考えると、少しでも食べておいた方がいいと判断したのだった。
 先にどこかでメイクをパッパッと済ませちゃおうか、などと考えていたら、サロンの前に通りかかった。三十人が入れる小教室程度の広さのそこは、学生達が自由にくつろげるスペースで、ソファや鉢植えの観葉植物、飲み物の自動販売機も、大きなテレビもある。
 そのテレビの前に、結構な人だかりができていた。奈保は近寄り、後ろから伸び上がって覗いてみた。

                           <次回へ続く

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