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幸福の傘
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大通りを一本入った一画の、小さな児童公園の隣に亜美のアパートはある。全部で六部屋の、小ぢんまりとした二階建てだ。まだ新しく、晴れた日には緑の屋根と白い壁がまぶしい。
しかし今、タクシーの窓から公園の滑り台越しに見るアパートは、街灯の光に照らされてはいるものの、闇の色が滲んだみたいに煤けて見えた。
それでも奈保は、ひとまずホッとした。パトカーが停まってもいないし、野次馬が群れてもいない。想像した中で最悪の事態には陥っていないようだった。
アパートの真ん前でタクシーを降りた。雨は一段と強くなっていた。奈保は頭上にバッグを掲げ、公園とは逆の、シャッターが下りた隣家のガレージの前まで行って、ベランダ側からアパートを見た。二階の一番奥、手前から三つ目の部屋の窓だけが明るかった。手摺壁で大半は隠れているが、うっすらと明るいのは確かだった。亜美の部屋だ。
奈保は膝の力が抜けそうになった。できることなら「亜美!」と大声で呼びかけたかった。タクシーの中で、あれから何度電話をかけても通じなかったのは引っかかる。が、いてくれるのなら、それもたいした問題ではなかった。すっかり雨を吸い込んだバッグを肩にかけるとアパートに駆け寄り、外階段を一気に上った。雨は外廊下も濡らしていて、奈保が足を運ぶたびにビチャビチャと水が跳ねた。
亜美の部屋の前に立ち、チャイムを鳴らした。応答はない。
ドアをノックした。顔を近付け、「亜美」と呼んでもみた。何の反応もなかった。
いないはずはないのにと思いながら、レバー型のドアノブに手を掛けてみた。カタンと下りたので手前に引くと、ドアが開いた。鍵をかけ忘れて外出したのか。でも、それなら中で待っていればいい。とにかく入ろう。そう決めた直後、不思議な感覚にとらわれた。自分が自分ではないみたい。何をするにも慎重だった。悪く言えば優柔不断。それが今、次の行動を躊躇なく決めている。ここへ来る時もそうだった。ちょっと誇らしい。しかし怖さもあった。このまま進むのは少し危険な気がする。
が、奈保は足を踏み入れた。冷房が効いている。雨に濡れた体がブルっと震えた。
部屋の灯りは消えていたが、奥の方が白くなったり青くなったり、小刻みに色を変えながら光っていた。何か聞こえる。テレビがついているらしい。
やっぱりいる、と奈保は確信した。灯りだけ消して出かけるなんて不自然だ。寝ているのかもしれない。
後ろ手にドアを閉め、「亜美」と大きめの声で呼んだ。返事はない。そのまま玄関にたたずみ、息を殺して気配をうかがった。
「これは二宮聖香さんが大学入学の日に撮影されたビデオ」
そう男性の声がはっきり聞こえた。二宮聖香という名前は覚えていた。昼間の女子学生の絶叫まで聞こえた気がする。多分、毎晩この時間に放送しているニュース番組だ、と奈保は思った。あの事件を取り上げているんだろう。
後ろ手にドアを閉め、上がり口の壁にあるスイッチを押した。間取りも自分の部屋と似ているし、何度も来ている部屋だから勝手はわかっている。
頭上でオレンジ色の小さな灯りがついた。下駄箱に立てかけられた黄色い傘が目に入った。
濡れたスニーカーを少し苦労して脱いだ。これもまた濡れているソックスを脱ごうかと一瞬考えたが、結局履いたまま上がった。
玄関と続いているキッチンの蛍光灯のスイッチを押す。
「嬉しそうにピースサインをしてみせる聖香さん」
流しの横に、汚れた皿と茶碗が重なっている。特に珍しくもない光景だ。
奥の居間に進み、そこの灯りもつけた。
誰かいる!
息が止まった。
が、すぐに大きく吐き出した。
窓ガラスに映った奈保だった。カーテンが開けっ放しだったからだ。
肩からバッグを下ろすと深呼吸して、ゆっくりと視線を巡らせた。
窓の横、部屋の角に黒いローボード、その上にテレビがある。画面右上に「詳報!雨宿り殺人事件」とあった。
「高校の卒業文集に聖香さんは、こう書いていた」
今まで聞こえていたのと同じ、男性のナレーションが流れる。
画面は、その文集の一ページのアップ。女性のナレーションが入る。
「将来は海外の貧しい国の人々の役に立つ仕事がしたい」
男性の声に切り替わる。
「そんな希望も、卒業して僅か三ヶ月余りで無残に打ち砕かれた」
部屋の中央に置かれた白い座卓の上に、テレビのリモコンと、水が半分入ったグラス。
フローリングの床に敷いた、淡いピンクのチェック柄のラグの上に、白いタオルケットが丸まっている。
ここで寝てたのか?亜美はどこだろう。本当に出かけたのか?
「明るく朗らかな聖香さんは、誰からも好かれていた」
左手の間仕切りの襖が、中途半端に開いている。奈保はそこから、隣の部屋を覗いた。
畳敷きの上には、ゴタゴタと化粧品が並ぶドレッサー。ベッド。小さな白い箪笥。見慣れた家具、いつもの位置。
ベッドの下。
ふと思ってしまった。
ベッドの下は?
訳もなく確かめずにはいられなくなった奈保は、忍び足で部屋に入った。
心臓が破裂するのではと思うくらい、鼓動が高鳴る。
ベッドから少し離れた位置に立った。
ゆっくりゆっくり、かがんでいく。何故こんなことをしているのか、奈保は自分でもわからない。亜美がいるはずはない。いるはずはない、けど。
体を丸め、畳に両手をつく。
下を見た。
何もない。誰もいない。
奈保はその場に、へたり込んでしまった。
バカみたい、私。思わず笑いが込み上げた。こんなとこ、もしもドッキリで撮られてたら、とんだ笑いものだ。
気を取り直して立ち上がった。
次はお風呂場だ。あとトイレも。どうせいないだろうけど。亜美は外出していると、奈保の考えは変わりつつあった。
居間に戻り、通り過ぎようとして、テレビに目が止まった。
うちの大学だ。
正門前で、ショートカットの女子学生がインタビューに答えている。
いつ撮ったんだろう?今日は行きも帰りも三号館や学食に近い西門からだったからか、全然気付かなかった。私がバイトに行ってから撮ったのかも。
「友達思いで、真面目で。あの日も、私と友達は最後の社会学の講義、さぼってしまったんですけど、二宮さんだけは出席するって言って。でも、こんなことになるんだったら」
こらえきれなくなったその学生は、両手で口を覆った。俯いた頬を涙がつたう。嗚咽がおさまると続けて言った。
「無理矢理にでも一緒に連れて帰るんだったって思って」
あの日最後の社会学の講義って、私と亜美が抜け出した、あの?
「また、近所に住む人は」というナレーションで画面が切り替わる。六十前後といった年恰好の、痩せた色黒の女性が映った。自宅だろうか、サッシの玄関前に立っている。
「いい子だったよ。あたしらにも、ちゃんと挨拶するしね。あの日の朝も、あたし、話したんだから。黄色い傘持って歩いてるから、あらー聖香ちゃん、綺麗な日傘だねー、なんて言ったら、やだなーおばさん、これ日傘じゃないよ、雨傘だよ、なんて言って。おばさんも気を付けた方がいいよ、今日降るかも知れないから、なんて心配までしてくれて。それがさー」
女性は言葉に詰まり、込み上げるものをこらえ、目をしばたたかせる。やがて唇を震わせ、声を絞り出した。
「酷いことするよね」
悪寒が止まらなかった。
そんな、まさか…。
二宮聖香の笑顔の写真がアップになる。ナレーションがかぶさった。
「最後まで真面目に講義に出席した聖香さん。持って出たはずの傘をどこかで紛失し、たまたま雨宿りしたコンビニで命を落としたのだとしたら。不運というには、あまりにもやりきれない」
奈保はたまらず玄関へと走った。
<次回へ続く>