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幸福の傘
3
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1(続き)
まさか、そんな偶然って。
下駄箱の脇の黄色い傘を取り上げて開くと探し始めた。これが二宮聖香のものだという証拠を。角度を様々に変えながら、上からも下からも見ていく。
とはいえ、この行為が間違いなく徒労に終わることは奈保にもわかっていた。最もはっきりした証拠は名前だ。が、まずないだろう。子供じゃあるまいし、傘に名前なんか書く大学生はいない。万が一、名前の代わりに、自分にしかわからない、例えばマークのようなものを記していたとしても、奈保には判断できないのだから意味がない。そう、今していることに意味などないのだ。
それでも奈保は、やめられなかった。さっきテレビで語られていた話からすると、彼女は几帳面な性格に思える。名前を残している可能性もゼロではないのではないか。また結果的に証拠が見つからなければ、逆にそれは、この傘が彼女のものではない証拠になる。途中からは、そんな屁理屈をこじつけて、隅々まで確かめた。
なかった。名前も、記号らしきものも。
よかった。これは彼女の傘じゃない。
自信があるわけもなく、自分に無理矢理言い聞かせて傘を閉じた後、顔の前で左右に回して今一度外側を確認した。それから傘の先の方を掴んで下に向け、持ち手を目の前に近付けた。黄色いプラスチックの持ち手。一番初めに確かめたのはそこで、その時は何も見つからなかった、と思う。数分前のことなのに、記憶があやふやだった。額に浮かんでいた汗が鼻の横を流れた。最後にもう一度、ちゃんと見て、それで終わりにしよう。
奈保は傘を、ゆっくり回していく。何もない。半分回転させたところで、持ち手の上の方、今は下になっている部分に傷が付いているのに気付いた。何かでひっかいたような白い傷。こんなの、さっきはなかった。やっぱりちゃんと探せてなかった!新たな汗が顔を伝う。傘を更に引き寄せ、間近で見た。
記号のような曲線と、その下に、アルファベットの「Z」に見える形のものが並んでいた。指先でこすってみたが、白い跡は消えない。かすかな凹凸を感じた。細い針のようなもので刻んだようだった。ただの傷ではなさそうだ。そこに何かの意味を見出そうと見つめるうち、奈保は無意識に首を傾げた。
胸の奥がスッと冷たくなった。
すぐにキッチンの蛍光灯の真下に移動すると、傘を横にして傷を、持ち手に刻まれた文字を読んだ。
S……N……。
叫びそうになった。奈保は咄嗟に右手の甲を口にあてがい噛んで、それを堪えた。
SN。セイカ、ニノミヤ。二宮聖香のイニシャル。探していたものがあった。でも本当に?イニシャルじゃないかもしれない。イニシャルだとしても、彼女のとは限らない。でも、黄色い傘。幸せの黄色い傘。昨日の最後の講義。借りるだけ。紛失。SN。これは……。
奈保は口から手を離すと傘を左手にだらりと提げて、夢遊病者のような足取りでテレビの前まで行った。
「これは、あなたの、だったの?」
傘を差し出し、画面の中の聖香に問いかける。聖香は笑顔で奈保を見ている。
「ねえ、これは」と再び問いかけようとしてやめた。こんなことをしている場合じゃない。亜美に知らせなくては。
奈保は足元にあったバッグの横にしゃがんで傘を置いた。
スマホを取り出し、画面に触れようとして手を止めた。
何だろう、この違和感。
顔を上げた。
テレビの中から見つめる、笑顔の二宮聖香。
この画面、いつまで続くの?
傘を調べに行く前からだから、もう五分以上は経っているだろう。長過ぎる。しかも無音だ。
奈保はスマホをテーブルの上に置き、代わりにテレビのリモコンを取り上げた。チャンネルのボタンを押してみる。
1、4、6、8、どれを押しても切り替わらない。聖香が見ている。
故障?
電源ボタンを押した。
消えない。何度押しても、聖香の顔はそこにある。
強く押してみた。長押しもしてみた。
何度目かの長押しの後、プツッと画面が暗くなった。
胸をなでおろす間も無く、画面が徐々に白み始める。呆然と見つめていると、やがて再び聖香の顔が現れた。
奈保は力一杯、電源ボタンを押さえ続けた。
故障?、故障だよね、ただの故障だよね!
画面が消えた。が、また、じわりと聖香の顔が浮かび上がった。
どういうことなのよ!
不可解な現象を、なんでもなかったことにしたかった。この画面を消したかった。麻痺寸前の脳みそを力の限り回転させた。
テレビを消すには…テレビを消すには…電源!
リモコンを放り出し、奈保は倒れ込むようにテレビの後ろに回った。画面の裏側から伸びるコードを辿る。壁の下の方のコンセントからプラグを、引きちぎるように抜いた。
これで終わりだ。これなら、もう――
膝立ちのまま動いて、テレビの前に回った。
息が止まった。
そこには聖香の変わり果てた顔があった。
ほつれた前髪が、何本も顔面に垂れている。両目は閉じているが、口は少し開いている。前歯が何本か覗いて見えた。
蠟のように白い肌。頬から顎、首にかけて血のどす黒い赤で染まっている。
さっきまでの笑顔とはかけ離れた、しかし紛れもなく聖香の、紛れもない死顔だった。
目を逸らしたい。なのに魅入られたように、奈保の目は画面に吸い付いて離れない。
いきなり聖香の目蓋が開いた。
白濁した瞳が奈保を見据えた。
思わず飛びのいた。テーブルに背中を打ちつけ、グラスが倒れる音がした。
画面が暗転し、顔が消えた。
後ろ手をついた恰好で、奈保はどうしようもなく震えていた。涙が止まらない。
怖い、怖い、怖い、怖い。
逃げようと思った瞬間、右目の端で何か動いた。
ゆっくりと窓の方に顔を向ける。
奈保の後ろに、人の形をした影のような黒いものが立っているのが、ガラスに映っていた。
奈保は床にへばりついた。そのままの体勢で首だけをゆっくり回して後ろを見る。
何もない。
再び窓ガラスを見たが、何も映っていなかった。
逃げたい。逃げなきゃ。
だが、下半身は自分のものではないみたいで、思うように動かない。代わりに両腕を突っ張って、どうにか上体を起こすとテーブルに突っ伏した。グラスからこぼれていた水が腕を濡らす。目線の先にスマホがあった。右腕を伸ばしてそれを引き寄せ、大きく振れる指を苦心して操り、電話帳を開いた。亜美の番号に指先を押し付ける。
どこにいるの、亜美、助けて、早く帰って来て!
耳に当てたスマホから「ただいま電話に出ることができません」という、これまで通りのメッセージが流れた直後、隣室でゴトッと物音がした。奈保はスマホをテーブルの上に置き、開いた襖の向こう側に目をやった。押入れが見える。あの中だと思った。
息を詰め、テーブルを支えにして両腕に力を込めた。腰を引きずり上げるように意識すると、萎えた両足がどうにか伸び、立ち上がることができた。
覚束ない足取りで襖の間を通り抜け、押入れの前まで来た。
何してるんだろう、私。逃げよう逃げようって、頭では思ってるのに。でも、この押入れを開ければ全部解決する気がする。ひょっとしたら隠れていた亜美が出てくるんじゃないか。だから開けよう。開けたら逃げよう。
奈保は押入れの襖の取っ手に手を掛け、なおも少しためらった後、力を込めた。引っ掛かるような手応えがあったが、強引に引き開けた。
上の段から飛び出したものがあった。それは、よける間もなかった奈保の胸から腹をこすって落下した。奈保は足元を見た。仰向けに倒れた亜美と目が合った。
亜美の目は大きく見開かれていた。が、その瞳は何も見てはいないのだろう。どんよりとして全く動かない。口もポッカリ開いて、洞窟のようだ。そこから吐瀉物の跡が、上に着ているTシャツの胸元まで続いている。下はショーツ一枚だった。横に投げ出された右手にスマホを握っていた。
亜美が、死んでる。
奈保は尻もちをついた。もう、こらえきれない。とてつもなく大きな声が喉の奥からほとばしったはずなのに聞こえなかった。声が出ない。
尻をついたまま必死に足を動かした。空を蹴ったり、畳の上で滑ったりして、どうにか数センチばかり後ずさると、四つん這いになって玄関に向かった。
涙と鼻水がダラダラ流れた。途中にあった傘を手で払いのけた。
何が幸せの黄色い傘だ!あんなもの持ち帰ったばっかりに。私はよせって言ったのに!
ようやく玄関に辿り着くと、下駄箱に掴まり、力の入らない足を精一杯踏ん張る。やっと立ち上がり靴を履こうとするが、足が震えて上手く入らない。靴は諦めた。
早く外へ!
ドアのレバーを掴んだ。
動かない。
ありったけの力で何度も試したが、下に回らない。
どうして?
「お願いだから動いてよ!」
叫び声が、やっと口の外に発せられた時、背後で聞こえた。
濡れ雑巾を床に落としたような音。
ビチャ、ビチャ、ビチャ。
次第に近付いてくる。
体が硬直した。奈保にはそれが、雑巾ではなく、雨と血で濡れた足の立てる音だとわかったから。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
奈保はきつく目を閉じ、声を絞り出した。
「でも私じゃないの、あれは友達がやったの、本当よ、私は止めたの、そんなことしちゃ駄目だって止めたの!」
すぐ後ろで足音が止まる。
何の物音もしない。
静寂に耐えられず、奈保は目を開けた。
と同時に、両方の肩越しに血まみれの腕が伸びてきて、奈保にしがみついた。
耳元で聖香が囁いた。
「アナタノ、セイヨ」
「違う、私じゃない、盗ったのは私じゃない!亜美が、亜美が盗ったの!」
<次回へ続く>