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「シン・ウルトラマン」ネタバレあり感想
2022(令和4)年5月13(金)待望の映画「シン・ウルトラマン」が公開さ れ、SNS上には一斉に感想があふれ出し始めました。
誰もが連想するのは「シン・ゴジラ」(2016・平成28年)で展開された「現実をシミュレートしたかの様な」リアルで重厚な映画でした。
しかし、その出来を巡って公開日には既に「賛否両論」とでもいうべき感想が溢れ、「シン・ゴジラ」の時とは明らかに違った様相を呈します。
本稿は「ネタバレあり」ですので、映画の内容に付いて知りたくない方はお読みにならないか、映画そのものを鑑賞後にお読みください。
筆者の感想としては、残念ながら最終的には肯定的判断を下すことは出来ません。
だからと言って大駄作だのという気はありません。これよりもはるかに出来が悪く、何より「志が低い」「不遜な態度」で作られた映画など幾らでもあります。
それらに比べれば引き離す完成度であることは大前提です。
SNS上では「奥歯にものの挟まったような」賞賛意見が目立つのですが、恐らく大半の観客の意見を代弁していたのがこちらのツイートでしょう。
シン・ウルトラマン観ました。やっぱりシン・ゴジラは奇跡のような作品であり、奇跡は二度続かないというのが僕の感想です。
— 松下哲也 (@pinetree1981) May 13, 2022
本論に入る前に筆者の立場をば。
筆者はオタク第二世代に属し、80年代に少年時代を送りました。
ウルトラマン、仮面ライダー、ゴジラどのシリーズも中断期間に当たり、ほぼ唯一放送が続いていたのは「スーパー戦隊」シリーズでした。
その為「大戦隊ゴーグルV」にはとりわけ夢中になって「ごっこ遊び」に興じていた訳ですがそれは別の話。
ところが、ド田舎の地元のTV編成者の趣味なのか何なのか知りませんが「ウルトラセブン」だけは何度も何度も再放送されており、幼少時には非常に親しみました。
あと「ウルトラマンタロウ」も回数は少ないながら放送されていました。
よって「ウルトラマン」を視聴したのは大人になってからになります。
その為「通り一遍の知識」はあっても情熱などにおいてはオタク第一世代のリアルタイム組には遠く及ばないことをまず白状しておきます。
さて、それでは「シン・ウルトラマン」の話に入るんですけど、やはり大前提として「シン・ゴジラ」(2016・平成28年)の存在を避ける訳には行きません。
余り作品と共に語られることが無いのですが、日本アカデミー賞受賞作です。同年に「君の名は。」があるため興行収入もぶっちぎりというわけにはいきませんでしたが、従来のゴジラシリーズを大きく上回り、日本映画史上でも屈指の金額となります(その後「名探偵コナン」の劇場版が毎年100億円を突破することになるのですが)。
では「シン・ゴジラ」の何がそんなに新しかったか?ですが、やはり「荒唐無稽」の代名詞である「怪獣映画」を一種の「災害映画」と捉え直して、主に人間側のドタバタを描いたことでしょう(人間ドラマではなくて)。
ただ、ではこのアプローチがそれまでに全く無かったかと言えば全くそんなことはありません。
そもそも「ゴジラ復活」を掲げた「ゴジラ」(1984年)におけるミリタリー描写は「ゴジラ映画なんて、様式美みたいに自衛隊がミサイル撃って全く効かない…の繰り返しでしょ?」と思っている現代の視聴者を軽く驚かせると思います。
「ビオランテ」以降や「VSシリーズ」などでは急激に「マンガ化」が進んで行くことになるのですが、「シン・ゴジラ並」は言い過ぎでも「その路線を目指した」ことは明らかに読み取れる重厚な内容になっています。
そもそも「ゴジラ映画」で首相を始めとした「政治家」がこれほど前面に出たのは初めてではないでしょうか。
またこれは「知る人ぞ知る」書籍がもしれませんが「ゴジラ対自衛隊―怪獣要撃戦略マニュアル (ザテレビジョン文庫)」なる書籍が1999(平成11)年に発売されており、「実際に自衛隊がゴジラと戦ったらどうなるか?」がかなり詳細にシミュレートされています。
「シン・ゴジラ」劇中でも議論された「自衛隊出動の根拠法はどれを使うのか?」問題も既に言及されています。
そもそも「怪獣映画と自衛隊」という側面においてはそれに先立つ1995(平成7)年に既に『ガメラ 大怪獣空中決戦』(いわゆる平成ガメラ)が公開されています。
余りにも自衛隊を美化して描くものだから、左翼の方々の機嫌を損ねたとすらされる作品群で、特撮監督を樋口真嗣監督が務めている作品という意味では「シン・ゴジラ」との共通点もあります。
つまり、「着目する観点」という意味では「リアル・ミリタリー路線」はそれほど目新しくはないのです。
「シン・ゴジラ」の瞠目(どうもく)すべき点は、それを滑稽なレベルに至るまで徹底して初志完徹させたことにあります。
その為、従来の日本映画が持っていた(陳腐な)「人間ドラマ」や「恋愛展開」をバッサリカットするどころか、肝心の「ゴジラ」すら余り動いている場面が無いという「異様な」映画となりました。
ただ、ある意味でスタンリー・キューブリック並と言ったらほめ過ぎでしょうが、「人間味のない演出」をやらせればピカイチの庵野秀明監督の特異なセンスが全体を引き締め、しかも「たった2時間」という枷が上手く作用して傑作となりました。
要するに「新世紀エヴァンゲリオン」で最も面白いとされる「ヤシマ作戦」だけで完成する映画なんだから面白いに決まっています。
凍結されたシン・ゴジラのしっぽには人間型の小型怪物(?)が湧き出しており、もしも続編ともなればこれらが分裂して世界中に飛翔して飛んでいくことになり、全く収集の付かない展開となり、登場人物たちの「自己語り」と共にイメージシーンが延々続くことになったでしょう(意地悪。
だから前後編でも三部作でもシリーズでもなく、ここでぶっつり終わるのが最善なのです。
海外においては「モンスターバース」として相変わらずの「怪獣プロレス」路線が人気であり、「怪獣映画なのに会議場面ばかり」のカルト映画「シン・ゴジラ」の人気は日本でのみのガラパゴス状態ではありますが、その後の創作物に決定的な影響を及ぼします。
オタクなら誰でも庵野監督の「ウルトラマン好き」は知っています。
TVシリーズの「新世紀エヴァンゲリオン」の5・6話が前後編になっているのは「帰ってきたウルトラマン」の編成に倣ったものです。
エヴァンゲリオンが妙に細身で勝つ「猫背」なのは初代ウルトラマンのスーツアクターがスペシウム光線の爆発に「腰が引けて」いる状態の再現です。
こんな例は調べれば幾らでも出てきますし、1995年の本放送時でもオタクの間では「常識」でした。
さて、では「ゴジラ」を現代にアップデートして蘇らせたオタク監督が次に遂に「一番やりたかった」であろう「ウルトラマン」に着手するとなれば、初代ウルトラマンにそこまでの情熱が無いオタクとはいってもそれは興奮するでしょ。
・・・なんですが、実は「庵野秀明監督映画」ではありません。
話はすごく面白いのに、演出がくそダサかったり、変にもったいぶられてイライラしたり、面白くなかったんです。樋口監督じゃなく庵野監督でシン・ウルトラマン撮ったらどうなるんだろうとそんなことばかり考えています。
— ZINN (@Goldene_ZINN) May 15, 2022
話はすごく面白いのに、演出がくそダサかったり、変にもったいぶられてイライラしたり、面白くなかったんです。樋口監督じゃなく庵野監督でシン・ウルトラマン撮ったらどうなるんだろうとそんなことばかり考えています。
— ZINN (@Goldene_ZINN) May 15, 2022
そう、「碇シンジ」の名前の由来ともなった盟友「樋口真嗣」監督作なんですね。
ちなみに、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』には、樋口真嗣に任していると『シン・ゴジラ』は駄作になると確信した庵野秀明が現場に降りてきてスタッフにめちゃくちゃ嫌がられながら作品制作の実権を奪う話がとても生々しく書かれています。
— 松下哲也 (@pinetree1981) May 14, 2022
監督としての樋口監督の手腕はどうなのか?ということにどうしてもなってしまうんですが、個人的には「のぼうの城」は面白かったのですが・・・という感じ。
個人的な恨みなんって全く無いのですが、明らかに「監督の手腕」で問題となった点も多いと見受けられます。
その1 「実相寺アングル」が余りにもウザイ
「実相寺アングル」とは手前に巨大なものをナメこんで(映しこんで)主役であるはずの人物を奥に配置する独特な構図です。
「新世紀エヴァンゲリオン」で印象的に多用されたのを覚えていらっしゃる方も多いでしょう。無論「シン・ゴジラ」にも多数あります。
元はといえば貧乏所帯で作らざるを得なかった特撮の場面で、大穴が開いたままのセットを「隠すため」にそうしたショットにせざるを得なかったらしいのですが、それが「味」になってしまった典型例ですね。
ただ、それも「たまにやる」から効果的なのであって、「シン・ウルトラマン」は後半ともなると殆(ほとん)ど全ての場面が「実相寺アングル」になってしまって流石に落ち着かなくなってきます。
これなどは、「庵野的演出」の積りなのかもしれませんが、「表面をなぞっただけ」と断じなくてはなりますまい。
その2 セクハラ描写がおっさんくさい
『シン・ウルトラマン』で描写された他者のケツ叩き性暴力描写、論外ですよ。最悪です。
— くさぱん (@kusapan) May 14, 2022
パンフで樋口監督が、あれは脚本段階で存在していた味付けと発言されているので、そうならば完全に庵野秀明脚本の落ち度です。
脚本を確認しないといけないですが、現時点では庵野ファンとして本当に残念ですね。
現時点で分かりやすく燃えているのが「セクハラ」描写ですね。
何というか「フェチ」描写です。
例えば、長澤まさみ演じる浅見 弘子(あさみ ひろこ)の初登場場面。
(この場面でいかにも「日本のドラマドラマ」した不自然な説明調セリフが結構キツいんですがそれはまた別の話)
何故かリクルートスーツみたいなタイトスカートスーツに黒タイツの長澤まさみは妙にローアングルに捉えられながら椅子に座り、その後恐らくは「動きやすい様に」履いていたローヒールの靴を脱いで、わざわざヒールの高い黒い靴に「履き替え」ます。
その脚をねっとりと撮るカメラ。
・・・この描写、いる?
ハイヒールってのはそれだけで「フェチ」そのものではあるんですが、逆に言えばそれでありながら女性にとっては日常の小道具でもあります。
筆者も男性なので、「黒タイツ」だの「タイトスカート」だの「ハイヒール」だのを見るのが嫌いかと言われればそれは嫌いではありません。
しかし、こちとら「怪獣映画」観に来てるんであって、エロだのフェチだのはお呼びではないんです。
格好つけてるんじゃなくて「モードが違う」んです。
子供目線で楽しみたいんですよ!
その昔「タイムボカン」シリーズで毎回必ず「ドロンジョさま」の「おっぱいポロリ」場面があったのは、ビール片手にナイター観たいとゴネているお父さんたちへの「サービス」であったのは有名な話です。
ただ、今は「子供の付き合いで無理やり劇場に引率させられたオヤジ」なんて劇場にいないでしょ。
いい歳こいて小金もって自分が観るために映画館に来てる子供大人ばっかりでしょう。サービスなんていらんのですよ。
その他にも尻を叩く場面でいちいち長澤まさみの尻がアップになるし、「巨大フジ隊員」オマージュの巨大化場面でも元ネタはしっかりパンツスーツなのに、わざわざミニスカートなのね。
巨大フジ隊員の登場したロケ地の丸の内仲通りビルに行ってきたよ。樹木で見えにくいけど1967年の建物が意外とそのまま残ってたりするのです。 pic.twitter.com/XMyqldKqbK
— タケダ1967 (@takeda1967) December 1, 2019
先日「進撃の巨人」の調査兵団の制服が男女共通であることによる進んだ意識についてのツイートがバズったばかりなのにこの価値観はどうでしょう。
肘でビルを粉砕した後の駐車場を破壊しようと振り上げた脚をそのまま制止させてスカートの中を見せつけようとせんばかりの場面に至っては寒気がしました。
何度でも言いますが、こういうのも好きですよ。でも「よそでやれ」ってことなんです。
確かに「巨大フジ隊員」は元の「ウルトラマン」にもある有名なエピソードには違いありません。
しかしあくまでも「異色作」です。
一番のメインターゲット視聴者である「小学校低学年の男の子」たちは「ウルトラマン」や「怪獣」が観たいのであって、「巨大女」などお呼びじゃないのです。
実際、小学校低学年時分の男の子なんて「女性的なもの」なんて恥ずかしくて嫌悪しています。
スポーツ選手やヒーローには憧れますが、女性アイドルなんてうげっという感じです。
そういうの(女性アイドルとか)に興味が行き始めるのは早くて小学校高学年とか中学・高校生になってからであって、「巨大女・・・いいよねえ」とか目じりを下げているのは男子大学生やおっさんのそれです。
巨大長澤まさみの展開は元の脚本にもあったそうですが、恐らくいいか悪いかはともかく庵野監督がとったならばああもおっさん臭くはならなかったでしょう。
だって庵野監督の「巨大女」ってぺったんこの「巨大綾波」とかですよ?
恐怖は感じてもあれでエロを感じるのは相当の上級者です。
しかし、「巨大綾波」が「ナイスバディ」であったならばまた違ってくるでしょう。言いたいことがお分かりいただけたでしょうか?
「ウルトラマン」のエピソードの大仰な再現でしかないところも含めて「おっさん接待」をやりたいのだ!ということなのであるならばもう私は何もいいません。
長澤まさみが巨大化を解かれた後「屈辱的な調査もされた」という場面で下腹部をアップにしたり、「風呂に入ってない」ことを強調してるのに匂いをクンクン嗅ぐ(そもそも匂いなら探知できるという根拠が不明)場面とか・・・。
正直「よくこんなの出演を受けたな」という印象。生半可なポルノよりもエロいです。
何十回でも言いますがエロがダメなんじゃなくて、「なんでウルトラマンでそれをやるのか」ってこと。
3 「お約束」に甘えてる?
私程度の薄い「ウルトラマン」ファンであっても、劇中の展開はほぼ全て予想が付きます。
「ネロンガ」が出てきたならば、「ああ、最初は透明で電気を吸ったら姿表すのね」とか、「ゼットン」が出てきたら「ああ、1回目はやられるのね」とかそんな感じ。
「予想が付いたから悪い」ではありません。
奇しくも公開直前にお亡くなりになったお笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」の上島竜平氏のギャグはどれもお馴染みですが、全く飽きません。むしろ「いよっ!待ってました!」という感じで全く同じように爆笑になります。
「新世紀エヴァンゲリオン」は「どうして怪獣は日本にばかり現れるのか」「そもそもどこから来たのか?」といった「それは言わないことになっている」ポイントを決して逃げずに徹底的に考え抜くことで歴史に残る力作になりました。
ところが「シン・ウルトラマン」は「特撮なんだからそこは許してよ」と言わんばかりの展開が幾つもあります。
例えば、ネロンガだのガボラだのいかにも漫画的な名前ばかり命名されることに関して「長官の趣味だと聞いています」と笑いに逃げています。
また、主人公の斎藤工演じる神永が「現場に逃げ遅れた子供がいる」といって、超VIPであろうにのこのこ本部から出かけて行ってまんまとウルトラマンの落下事故に巻き込まれます。
確かに多くの観客は「多分こいつが巻き込まれて死亡してウルトラマンになるんだろうな」とはそりゃ思いますよ。
しかし、その路線は「シン・ゴジラ」で一旦は否定したものじゃなかったのかと。
観客誰もが「そりゃないだろ」と突っ込むお約束のシーンはなくても映画ってのは成立するんだと見せたんじゃなかったのかと。
確かに筆者などは「前回はゴジラだったけど、今回はウルトラマンだ。思いっきり漫画的な展開になるだろうが、そこは許容しよう」と思って劇場に足を運んではいます。
いますが、「エクスキューズに使ってもいい」と言った覚えはありません。
とりあえず以上が「細かい難点」です。
では、そもそもの「構図」についてお話させてください。
私が幼少時に親しんだのは「ウルトラセブン」(本放送1967年10月1日から1968年9月8日)という話は既にしました。
よく勘違いされますが「ウルトラマンセブン」ではありません。
基本的には「ウルトラマン」と世界観を共有していない「別シリーズ」です。
その後「ウルトラ兄弟」としてシリーズに統合、取り込まれる形になって本編にも登場することになりますが、この時期は全く違うものでした。
「ウルトラマン」は驚異的な高視聴率ではあったものの、本来ならば「ゴジラ」の様な「年に一度のお祭り」である「特撮映画」を毎週放送するような試みであったため、製作に猛烈に予算が掛かったそうです。
その為「セブン」においては「侵略」路線が取られることになります。
(ちなみに「セブン」の後番組は「怪奇大作戦」(1968年9月15日から1969年3月9日まで)です。このタイトルですが一応「刑事もの」です。実際は特撮満載ですが、等身大が多いので予算という意味では楽になりました。あと「新世紀エヴァンゲリオン」への引用が猛烈に多い作品ですので興味のある方は調べてみて下さい。日本TV史上屈指の封印エピソード「狂鬼人間」を含むのもこの作品)
「セブン」は特撮のみならずあらゆるTVドラマの中でも随一の傑作であり、当然ウルトラシリーズの最高傑作とされますが、それはとりもなおさず「侵略もの」であったからでしょう。
実際問題「ただデカいだけのケダモノ」である「怪獣」と「話しかけて」くる「星人」ではその味わいは全く違います。
まあ、実際は「ウルトラマン」にも「侵略」を仕掛けてくる「星人」も多いのでそれほどくっきり分けられるものでもないのですが。
ともあれ、「シン・ゴジラ」においてはたった1匹の怪獣に右往左往していた人類は、「シン・ウルトラマン」においては次々にやってくる「怪獣」に連続して立ち向かう必要に迫られます。
これは案外小さそうで大きな問題だと思います。
というのは「災害として怪獣を描く」試みは既に「シン・ゴジラ」で試みられており、「二番煎じ」にしかなりません。
実際あちこちの場面が「縮小再生産」というところでした。
つまり「災害で行くのか侵略でいくのか」がどっちつかずになっているんです。
また、ザラブ星人とメフィラス星人と「侵略」型の宇宙人が2回やってくるという「しまりのない」構成はどうしたことでしょうか。
私はどうせやるんなら「侵略」に絞るべきだと思いました。
であれば最も有名な「ウルトラ怪獣」である「バルタン星人」を出すことも出来たでしょう。
「移民問題」を絡めることも出来て現代的だと思うのですが?
冒頭の「ウルトラQ」怪獣たちを人類(日本?)が被害を出しつつも次々に対処した場面をナレーションで済ませる「パシフィック・リム」展開にしても、元が50話なりのTVシリーズである「ウルトラマン」は元が映画である「ゴジラ」のリブートと違って明らかに食い合わせが良くありません。
複数の怪獣を次々に処理する映画ではなくて、思い切って「侵略」一本に絞って、「数あるTVシリーズの中の1エピソードを映画化しました」という体裁でやるべきだったのではないでしょうか。
何も1本の映画の中でウルトラマン誕生から最終回まで描く必要はないでしょう。
最後に。
私は制作の裏事情まで走りませんが、明らかに「シン・ゴジラ」に比べて予算不足を感じる場面が多かったです。
例えば「会議シーン」一つとっても大きな部屋に人間で埋まった会議シーンなどの大規模ロケーションが多々あった「シン・ゴジラ」に比べて「シン・ウルトラマン」は非常に少人数しか画面上に登場しません。
苦し紛れの「実相寺アングル」の多用はこれを誤魔化す意図だったのかと邪推してしまいそうです。
また、正真正銘「ファーストコンタクト」であり、泥縄式に対応するしかなかったはずの「シン・ゴジラ」の「巨災対」(巨大不明生物特設災害対策本部)ですら少なくとも数十人はいるであろうことが画面から分かるのに、「日常的に怪獣がやって来ている」はずの「シン・ウルトラマン」世界において「禍特対(カトクタイ)」(禍威獣特設対策室)がたった数人しかいない(様に見える)のはどういう事なんでしょう?
あと、最後のゼットンを倒すシチュエーションにしても、「ヤシマ作戦」(ヤシオリ作戦)の再来を狙ったのでしょうが、「縮小再生産・劣化コピー」としか評しようが無いです。すみません。
まとめ
随分厳しいことも書いてきたんですが、基本的には楽しみましたよ。
お馴染みの名前が次々に出て来る展開などは、どちらかといえば「接待されるオヤジ」に近い世代の筆者には何だかんだ言って嬉しいもの。
ただ、セクハラ問題などの「看過し難い」問題点を抱えていることも事実です。
とはいえ、「あれだけウルトラマンの独自解釈作品を作り続けてきたクリエイターの『遂に本丸の監督作』」がこれかあ・・・とは思ってしまいますね。
異論歓迎。