ぎゅっと詰めた日々
元気でいるために必要なこと
絶不調でした。
ワクチン2回目射ち終わりました。普段風邪を引くとき、私は基本のどから来きて発熱するタイプで呼吸器官の悩みには慣れっこ。気圧に弱いタイプでいながら偏頭痛よりかは肩こりと目の疲れからくる頭痛がくる。これも温めたりほぐしたり、メンテナンスすればどうにかなる程度。そして今回の副反応の症状は発熱、頭痛、気持ち悪さ、トリプルコンボ。さらによくある節々の痛み、だるさMAX。割と経験からしたら無縁な症状だったためにへとへとになりました。すでに摂取して3日目ですが、地味に頭痛は残っています。もう1日くらいはかかりそうです。そしてワクチンの前から不調気味だった胃が、ここぞとばかりにやる気を無くしたようです。頼むよ。本当に。
3回目のワクチン摂取…すでに気が重い。そんな私です。
さりげない一言
とある方から「ましろさんが外に出る様になってから、いろんな話を持って帰ってきているのを見れてうれしい。」と言われました。
コロナ感染への不安と、東京という場所が合わなくて誰とも会いたくないと思い、配信アプリに逃げ込んだ2020年4月中旬。それから仕事を休職し、2021年6月末に退職、引っ越し、車の普通免許取得、10月からやっと転職。個人的にはいろいろあったけど、人と関わるという点においては車の免許取得まで、ほぼ一人きりの世界。私が人と関わることに新鮮味があるのか…と真面目に受け取ったのでした。楽しみにしてくれてありがとう。
都会から田舎へ、山へ
転職した職場は、今のところ人には恵まれているようです。
長年勤めているけど、手を差し出さずにはいられないかわいいおじいちゃん所長がいます。頼りになるお兄さんと、少し変わったパートのおばさんも。根は悪い人ではないけどちょっと微妙なお節介おじさんがいますが、スパイスと思って受け流すようにしています。
そもそも私が職場に求めたことは、環境。もうとにかく都会から離れたい。できることなら山へ行きたい。鳥の声がして、木々が風に揺れて葉が擦れる音が聞きたい。当たり前のことが当たり前に過ぎゆくところで、自分の当たり前を守りたい。そんなことを叶えられる場所が欲しい。そんな気持ちでした。今まで自分を表現する何かに繋がる、メリットがあることを仕事にしないと意味がないと考えていた私からしたら驚きの決断でした。
結果、環境にはとても満足しています。外に出るときは必ず深呼吸を忘れずにします。風がやわらかい。土の匂いと、露の匂い、太陽が当たる草木の匂い。自分をゼロにできる気がするのです。キャンプやアウトドアが好きな人は、こんな気持ちも醍醐味なのかもしれない。
今は簡単な事務をしていますが、来年からはしっかり会社に絡んだ事務をしていく予定。環境に満足していられるだけの場所にはならないかもしれないけど、うまくバランスを保ちたい、そんな気持ちです。
『自分にとっての当たり前を当たり前に』
この当たり前の実践には、自炊も達成項目のひとつにありました。まず物理的に、職場へ向かう途中にコンビニやスーパーがない。帰り道に寄りたい外食のお店も特にない。そんな条件下にあるため、大体の食事は自炊できるようになりました。それでも毎日キッチンに立つ気力はないため、対策はあります。
・休日にメインおかず5日分、サブおかず2日〜3日分を作り置き
・週半ばにサブおかずを作り足し
・麦茶は季節関係なく毎日作る(水筒用)
こんな感じです。注意点としては、昼食夕食ほぼ同じメニュー5日間です。一人暮らしだからできることですね。たまに疲れ果てて夕飯がどうしても気分じゃない時は、スーパーでお惣菜買ったり別メニュー用の材料を買って作り食べることもあります。
料理は好きです。母が作る料理が好きでした。高校生の頃に一緒に作ってレシピや味の感覚を覚えたおかげで、今では完全再現することができます。
それでも一人暮らしスタートしてからの食生活を振り返ってみたら、ほとんどコンビニだったことに気付いたのです。事務の頃は会社の社食とコンビニ。接客時代はオールコンビニ。ありがたかったのは、セブンイレブンの惣菜やお弁当がおいしく、食べ続けることが可能なクオリティだということ。接客時代後半は職場にお湯があったので、おにぎりとカップお味噌汁固定でした。温かさというのは、身体にとって大切な要素だと気付いた経験です。
ただ仕事と生活に追われ夢中になっている間、食べたいものを食べてはいるものの、「コンビニか外食」という選択肢が主軸になっていました。
そんな生活の中で、衝動的に母の味が恋しくなるタイミングがあります。そんな時は、どんなに疲れて夜遅くなっても作って、何かを埋めるように無心で食べていました。(主に生春巻き、餃子、豚汁、ポテトサラダ、グラタン、ほうれん草のキッシュなど)
ごはんというのは不思議なもので、自分のために作った・作られたという実感のあるごはんは、自然と心が満たされる何かがあります。言うならば、温度だけにとどまらないあたたかさがあるのです。
心の虚しさを満腹感でごまかすこともあります。その虚しさを埋めるとき、既製品で詰め込もうとすると、どんなに食べても満足できずに苦しさだけが増すことも。そんな時、手作りだと認識できるごはんのあたたかさは、満腹にならなくても満たされるのです。
自分を守るための『当たり前』に自炊を加えられたことは、私にとって大きな一歩でした。
考えたいけどまとめられないリスト
ぼーっと景色を眺めることで、考え事が捗っています。職場のデスク前に窓があることや、車の運転で毎日違う顔を見せる空を見ることができるからでしょうか。Twitterでもがくように「note書きたい」と繰り返し言うものの、まとまるほどの時間はなくて不完全燃焼しています。
なのでここに簡単にまとめて置いておきます。
育児、親としての教育、子どもとの向き合い方
前提として、私は子どもを産み育てることに非常に消極的です。
そんな私がより深く考えるようになったのは、やはり姪っ子の存在であり、周りの女性に子育てしている人が多いからでしょう。さらに言えば、子どもを育てるのは親だけではないということ。子どもに関わる可能性が1mmでもあるのであれば、出会う子どもたちにとって、どんな大人であるべきか。考えておいて損はないはずです。子どもを持ち育てている身内や友人いる以上、私は考えずにはいられないのです。自分自身の選択がこれでいいのか、という自問も含めて。生きることは本能か
木にとまって鳴く鳥たちを見ながらふと思ったことです。私たちは心臓が動いていることで生きていると認識している。心臓が動き出すことで必然と生きることは始まる。鳥たちは、生きていると実感しているんだろうか。私たちは生きることは必然でしかないのか。なぜ死ぬことへ悲壮感、喪失感を感じるのだろうか。生きることは本能なのだろうか…。『傷つける代わりに 同じだけ傷つこう』
BUMP OF CHICKENの「メーデー」から引用です。自分が付き合いたい曲・なりたい曲(姿)は何か、という話があり、私は「メーデー」だと思った。詳しくは歌詞を読んで欲しい。そのまま、言葉通りです。その歌詞の中で、最近噛み締めた言葉がこの部分でした。
※作詞の意図と違う可能性があるので注意です。
人を傷つけるつもりがなくても、人を傷つけることがあります。自分が傷つくことがあっても、傷つけた人はそんなつもりなかった。そんなこと、よくある話です。そんな中で、ある人に伝えたい言葉があるとします。その言葉をその人のためを思って伝えたい。でもその人を思わぬ形で傷つけることになるかもしれない。そのリスクを背負ってでも伝えなければということが、稀にあります。その時は、相手を傷つける代わりに、相手を傷つけたという事実と責任を負います。相手と向き合うということは、それだけの覚悟を持って行うべきだと、改めて噛み締めました。師匠の話
20代の私に絶妙な距離感で関わってくれた「師匠」がいます。時折いまでも彼女の言葉を思い出します。最近また思い出すきっかけがあり、元気かなあとぼんやり考えていました。師匠がくれた言葉と、私にとっての彼女の存在意義、そして与えられた影響について。そのうちゆっくり書きたい話のひとつです。
ざっとこんな感じの日々です。
やりたいことも考えたいこともあるこの頃。
ただ今は、自分の当たり前を守ることを最優先に生活する。
そこに自分のエネルギーを全振りしたい。
去年と比べて、少しずつ体力は戻ってきています。
さあ無理してここまで書いたはいいものの、眠らなくては。
また書きます。そのときまで。