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「優しさ」の話【中編】

人にされたくないことは、人にしない。
その逆を言えば、自分がされて嬉しいことは、人にするといい。優しくされることが嬉しければ、人に優しくすればいい。
いつだって私たちは、お互いのために生きているようなものだ。人は一人では生きていけないのだから。

私はとにかく人に相談されることが多かった。小学生の頃からだ。悩んでいると打ち明けられること。そんな人のぽろっと口から零れ出た想いを、両手で受け止めて大切にしてきた。ほんの些細なことから、命の重さについてまで。その時の言葉の掛け合いというのは、とても繊細だ。

今回は、優しさを求める・求められる人間関係の話を中心に書きたい。私の経験から得た考えで、極端な例になるかも知れない。でも自分のためにも、これは事実だと残しておきたい。

人と関わる返答の種類

「自分に自信がない。」
相手からこんなことを言われたあなたは、どんな言葉を返すだろうか。
この人は、少なくとも落ち込んでいる。何か相談や打ち明けをしたいだろう。あなたにどんな言葉を期待しているだろうか。いくつか返答を用意してみた。

A 受け入れ/切り替え 「そうなんだ。/ そんなことより〜」
B 励まし 「そんなことないよ、自信を持って。」
C 提案  「何か自信になるもの、一緒に探してみよう」

・Aの受け入れ(もしくは受け流し)、切り替え
相手との距離が近付く可能性は低め。「そうなんだ。」という一言は、更に相手の出方を待つという意思表示になる。その出方次第で、新たにA~Cを判断が必要だ。もしくは「そっか。そんなことよりさ、」と別の話に切り替えることもできる。ただ、いずれの場合も「自分の発言をスルーされた」と思われる可能性は高い。

・Bの励まし
相手との距離を少し縮めることが出来る。こちらが相手の味方であるという姿勢になる。無条件に「優しい」と言われる模範解答に思える。相手を元気付けようという行動、励ますという行為。

・Cの提案
相手との距離は相手次第。だが、こちらから関わる意思ははっきりと伝わる。この提案にのる場合は、互いに距離を縮めることになる。言い換えると、相手のことを更に知ることになり、こちらも知ろうとする姿勢になる。相手の人生に関わり、協力する。

きっと他にもいろんな方法があるかもしれない。それぞれを比較することで、相手との距離感・自分の姿勢が変わってくることがわかる。たとえ明確に期待された返答でないとしても、相手が自分に向けて口にした言葉なのであれば、何かしらの意味がそこにはあるはずだ。こういった会話をしていくうちに、相手との関わりは増えていく。自分で踏み入れようとすることもあれば、相手に招かれて引き込まれることもある。

だから線引きをする必要がある。BとCに比べて、Aは誤解を生む可能性もあり、会話が止まることもあるだろう。それでも選択肢にAを加えることが、私には必要なのだ。自分で踏みとどまらねばならないと気付いた。

『優しくする』ことと、『甘やかす』ことは違う。

人が傷つき、誰かを求めるとき。
そこには優しくされたいという気持ちが生まれる。求められるのは、きっとこの2つのどちらか。

誰かを頼りたい。/ 誰かに甘えたい。

このいずれかに応えることを、『優しさ』と呼ばれていた。
(少なくとも、私の場合は。)

この2つには決定的な違いがある。

頼ることは、現状からの脱却を求めている。
自分だけの力で解決できないことや、何かに迷っているとき、変化を求めているのだ。自分の中にない考えや、自分を客観視してもらう。知恵を貸してもらい、参考にするなど。何かしらの変化を求めているのだ。
このままでは嫌だ、変わりたいと願うのだ。

甘えることは、許容されることを求めている。
今の自分がしてきたことや、今の自分がここに在ることを許されたい。自分を正当化したい。あるがままの自分を受け入れて欲しい。この場合は、変化を拒否している。たとえそれがどんな自分であっても。

傷ついた人は、自分が傷ついたことを知って欲しいのだ。
傷つけた当事者ではなく、自分を許してくれる人に。
自分を許してくれる人は、『優しい』人だ。

誰かに頼ったり、甘えた人の心に、何とも言えないあたたかな気持ちが生まれてくれるとうれしい。その気持ちがきっとずっと続くといい。交わした言葉が風鈴のように、気づかぬ間にも柔らかく鳴り響くといい。

そんな願いを込めた優しさが、ろうそくの火のように、ふとした一瞬で消え去ったらどうだろうか。

『優しさ』を求める行為は、ループする。

人の心は、時にとても残酷だ。傷つけられたい人なんていない。
それでも深く傷ついている人はいる。その時にできた傷ではなく、小さかったはずの傷が、癒えないまま更に傷つき、深みを増した傷だ。その傷はいつの間にか自分の中でレッテルになる。
もし見ないフリをして生きていても、傷があるという事実を受け入れられるまで、もがき苦しむことになる。その戦いはとても孤独で、どうしようもなく自分を滅茶苦茶にしたくなる。そんな渦中にいる自分を許して欲しいのだ。

『頼り』たくて求めたはずが、『甘え』に形が変わることも同じだ。
そのための『甘え』という優しさは、一度で足りることはない。傷と向き合う時が来るまで、相手が自分自身を受け入れるまで、その『甘え』は幾度となく必要とされる。

「痛そうだ、そんなに傷をつけられて、可哀想に。」
「その傷が痛々しいから、目隠しをしてあげる。」

許された相手は、きっと笑ってくれるだろう、少しは気分が変わるだろう。心地よくなり、安心するだろう。そしてまた心地よさを求めたくなる。きっとこのまま、この気持ちを持続できればいいんだ。そう錯覚する。
本人も自覚しないまま、相手から与えられるものに依存し始めるのだ。
自分の存在や言葉で安心してくれるならそれでもいい。最初こそ、そう思えるかもしれない。ただずっと同じ状況にいる相手に対して、繰り返し優しい言葉をかけるロボットにはなりたくない。一時的に相手を助けられたとしても、本当の意味での助けにならないことにいつか気付くはず。相手にかけ続けた言葉が、伝えたいことが伝わらないことに、悲しくなったりする。相手を助けられないことに、自責の念すら生まれたりする。
このループは、儚く壊れやすいものだ。

知らない、わからない。でも知りたい、わかりたい。

不思議なことに、人が経験することは似ていることが多い。似た悩みを持ち合わせることがある。似たことを経験するからこそ、悩みとの付き合い方を聞いたりする。ただ忘れていけないのは、相手は他人だということだ。
同じ人間はいない。どんなに同じものを好きでいようと、同じ価値観を持っていようと、相手は自分ではない。相手も自分ではない。
私たちは知らないのだ。自分の感覚を、別のもので代弁することしかできないように、相手の感覚も代弁されたものだ。本当の意味で、相手の気持ちを全て汲み取ることはできない。だからこそ、相手の悩みに答えを出すことはできない。答えを出すのは、悩む本人なのだから。
どれだけ人生にパターンがあっても、その人の人生は一度きりで、その人にとっての出来事だということ。

「何も知らないくせに」
「何もわかってないのにいい人面しないで」
「偽善者」

私が未熟だった頃、自分に向かって放たれた言葉だ。
人は知ったかぶりをされることを嫌う。自分にそんなつもりがなかったとしても、相手にそう捉えられることはいくらでもある。実際、私は間違えたのだ。相手の言う”全て”を何も知らなかった、想像力が足りなかった。知っているつもりでしかなかった。相手を知るということは、人に見せたくないようなその人自身を曝け出してもらう、本心を知ることだ。

『知らないくせに』『わからないくせに』
そうだね、君のこと何も知らない。だからわからない。ごめんね。
だから教えて欲しい。君のこと、君の周りのこと。君が今立っている場所から何が見えていて、足元には何があるのか。後ろを振り返ってみたら、そこには誰がいて、君は何を思ってこの場所に辿り着いたのか。
聞かせて欲しい。君の言葉で、話して欲しい。たくさん教えて欲しい。

相手の力になりたい、何か出来ることをしたい。その思いを持つ優しい人に、ぜひ一度立ち止まって考えてほしい。相手を知る覚悟が自分にあるのか、聞いてみて欲しい。
自分にそれだけの余裕があるのか、考えて欲しい。

あなたにあるのは、1つの頭と、2つの手と、2本の足。与えられている時間は1日が24時間。相手に割ける時間と心があるかどうか。
その覚悟が、あなたにあるのか。

誰かが大切なように、あなたも大切。

目の前に助けを求めている人がいて、そんな覚悟なんて考えていられない。放ってほけない。自分が助けず、もしも誰も助けなかったら。ぐるぐると悩むくらいなら、今出来ることをすべきだ。そう思う時もあるかもしれない。

相手を受け入れる以上、自分の知らない境遇や、感情、価値観に触れることになる。それを相手に合わせて想像しながら、出来ることを考える。必要があれば知らないことは調べ、その人の性格や現状を把握し、本人の希望を汲みつつ、最善を尽くす。

これだけのことを、さあ何人分応えられるだろうか。無制限にできるだろうか。求めてくる人全員を、両手を広げて抱きしめてあげられるだろうか。

いろんな人を助けようとして、何とかそれぞれに応えたとして。あなたが手一杯になったとき。余裕がなくなったとき、相手から求められたらどうだろう。その人よりも、もっと大切で身近な人が困っていたら?優先順位をつける?考え出したらキリがないだろうが、それでも考えて欲しい。
とても悲しいことだが、もし相手との信頼関係が薄いうちに、甘えられない・頼れないことが判明したとき、相手がそれを『裏切り』だと感じることがある。そして立て続けに言うかもしれない。『嘘つき』『偽善者』と吐き捨てられる。あなたは相手に出来ることを出来る限りしてきたのに。

助けを求めてくる人がいつ救われるかなんて、わからない。出来ることは少ない。本人にもわからないから不安だし、寂しく、孤独だ。変化は本人にしか訪れないし、それに気付けるタイミングも本人次第。そして切実な願いであっても、助けてくれる人のことは傷つけたくないはずだ。人を助けること、支えること、関わって生きていくことは、簡単ではない。悔しいけれど、簡単ではないのだ。

だから相手を知る前に、踏みとどまることを許して欲しい。
助けて欲しいのは『今』だ。相手だって誰も苦しめたくない、でも確実に誰かを求めている。その時にあなたが応えられるかどうか。これは互いのために必要な選択なのだ。

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ここまで書くのに、考えるたびに胃は痛むし息が詰まる思いだった。正直、極端な話だ。全体を読み返して、そんなヘビーなものを受け取る方が違うのかもしれないとも思い始めた。でも事実だ。様々なことに傷つき悩む人はいる。溢れるほどに。思春期だけに限らず、どの世代にも必ず存在する。だからこそ、私たちは寄り添って生きていきたいと願わずにはいられない。

これは優しくありたい、もっと言えば優しすぎる人への、私からの願いだった。
優しすぎた自分への忠告でもあった。どうか心の隅に置いて欲しい。

最後に、傷つき悩み苦しむ人に伝えたいことがある。私の持てる言葉という言葉を使い書くから、読んで欲しい。
ここまで書いてて、私が辛かったのは優しくされたいと求める人たちが自責の念に駆られないかどうかだった。本当にひどい話だと思う。
きっと救われたかった過去の私が読んだら、心をぐちゃぐちゃにされて途中で読むのを辞めたかもしれない。でもここまで読んでくれてありがとう。

後編、残り少し。伝えさせてください。

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