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優しさの話【後編】

誰かに頼ること、甘えること、依存すること。優しさを欲すること。その時、求められる人が近くいたらきっといい。どんな関係性でも、あなたの助けになる人だ。
だが、優しさを求めていながらも、受け入れ方を誤ってしまうことがある。
甘えたり頼ることが苦手、もしくは許せないと思う人もいる。そんな人の存在の話がしたい。

優しさを拒む心、心の在り処

優しさのループにいる人が、頼っていた相手に途中で離れられてしまった時。裏切りの感情の後に待つのは、人間不信だ。人を信じられなくなり、人に頼ることが怖くなる。相手への少しの期待も抱けず、人を信じることすら諦めてしまうだろう。「この人もきっと離れていく。自分を許容してくれる人など現れない。」そうして孤独になっていく。さらに、自分をどこまで相手が許すのか試すような言動を繰り返し、相手が離れたときに「やっぱり」と笑って突き放すことだってする。どんどん自分を追い込み、他人と関わらず一人でいなければならないと、頭や体に刷り込む。自己暗示はこうして生まれ、繰り返される。
「自分が許容できない自分を、どうして他人に向けることが出来ようか。苦しく孤独な闘いを、曝け出したところでどうなるのだ。」
これは発作的欲求で、双方が気力を激しく消費する。この状況を脱しないと、向き合うことはまず難しいだろう。

また傷ついたことがある人は、傷ついている人に敏感になる。似たような目をしていたり、言動や声のトーン、笑い方、些細なものでもなぜか感じ取ってしまう。(私自身が過剰なだけかもしれないが。)
痛みや弱さを知る人は、自分を見ているような気分になるのかもしれない。

同じ傷に出会ったのなら、それを理解できるんだと手を握りたくなる。一緒にいよう。一人は寂しすぎる。どこにも行かないから、だってその傷を理解できるのは自分だけ、そしてあなただけなのだから。

これが共依存のリスクが生まれるきっかけだろう。互いの心を埋め合うように、溶け込むように、離れられなくなるまで一つを求める。別の人間であるはずが、これは自分だと思い、愛したくなる。人の心は如何様にもなる。自分の心を相手に預けた結果だ。もし相手の心の行き場がないとしたら、どんなことが起きるか、考えるととても苦しい。

器用に生きる人間だったら、そもそも悩んでいないかもしれない。でもこうして傷つく人こそが、他人を理解しようと必死になる。誰かの存在を誰よりも感じているし、感じたくないと思いながら生きているのかもしれない。

自分との向き合い方、人の求め方、その先。

もしあなたの話を聞いてくれる人がいたら、心にある感情を何かに例えて伝えてみてほしい。切り口はどんなことでもいい。うまく言葉にできないとしても、その感情をあなたがどう思っているのかが知りたい。
人に説明をしながら、口にして初めて気付くことがあるのだ。自分が傷ついていることや、傷の大きさ、深さ。そして傷に気付けたなら、気持ちを感じ取って欲しい。これはとても大切なことだ。

自分を知ること。自分が望むことを知ること。
あなたが今立っている場所、その周りを見渡せること、目を開けること。

そこに立っているのはあなた一人きりだが、語りかける声は必ずある。
その道は、あなたが歩くための道なのだ。

「誰もそんな人はいない。」と思うのなら、自分だけが見れるノートでもメモでも作って書いてみるといい。そして欲しい言葉を探し求める旅に出たらいい。音楽や本は持て余すほど溢れている。そこには確かにあなた以外の誰かがいて、常に語りかけている。フィクションでもノンフィクションでも関係ない。そこに描かれる世界を作り上げたのは人で、何かを伝えたいと明確な意思があってそこに存在している。その『何か』を探してみるといい。人の心を知ると同時に、自分の心を知れる機会があるはずだ。これは目の前にいる人を求めるより、いい手段だと思っている。時間の許す限り没頭できて、相手の都合を気にすることなく、一人で完結できるけど独りではない。そこに人の心はあるのだ。


誰かの優しさが、余すことなくあなたの心に沁み渡るといい。その沁み渡った心が、あなたの体の中を巡って命を繋げていくといい。いつかあなたが与えられた言葉を思い出し、それを誰かの心に投げかけたとき。自分にかけられた言葉の意味の深さと、そこに込められた本当の願いに気付けるだろう。

『私』と『優しさ』

人に優しくするには、相手を受け入れるだけの覚悟と余裕がないといけない。それを何より伝えたかった。人が抱えるもの同等の重さを背負えとは言わないが、相手を理解することは生半可な気持ちで出来ない場合もある。
これは私への忠告、いや警告でもあるのだ。

ここまで生きてきて、いろんな経験をして線引きもしてきた。自分の身の丈も知っているし、相手に合わせて言葉を選びながら接している。これだけしてきたというのに、先日私は号泣しながら心の中で叫んでいた。

無謀だとだってわかっていても願いたい。真夜中、誰にも知られず流す涙をどうして拭いに行けないんだろう。どうしてこんなに苦しんでいる人がいるんだろう。どうしてこんなにも人を苦しめるんだろう。自分が神様でも正義のヒーローになれるわけでもない。誰かを守って支えるほどの力があるわけでもない、せめてお金がたくさんあれば他の手段で助けられるだろうか。

たとえ強い風が吹き続けても、私は誰かの手にろうそくがあれば、そのろうそくに火を灯したい。一瞬で消え去っても、何度でも灯したい。だってその手にはろうそくがある。火が灯ることを、揺れながらも熱を放つ火が、あなたの手にあることを知って欲しいから。

懲りもせず、10代の頃の自分に戻ってしまったような感情だった。今の私でさえ、こんなことを切望してしまうのだとしたら、私は私の『優しさ』を一生捨てることなど出来ないのだろう。何も簡単じゃない。

優しくありたい。人にも、自分にも。
誰の目にも、その人にとってしあわせに思える世界であって欲しい。
互いに出来ることを分け合って、笑ったり語ったり、涙を拭いあったり、自分の世界がここにあるって実感できるような。あたたかく、やわらかな風が吹く世界でありたい。


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後編はさらっと書き終えるはずが、思った以上に難航した。私自身が揺らぐことがいろいろあり、考えては悩んでしまった。それでも書き殴ったメモは全部使ったし、結果言いたいことはさほど変わらなかった。
私の号泣のきっかけは対人ではなく、フィクションのドラマだった。そこまで感情移入する自分にも驚いたが、重ね合わせた部分が非常に多かったからだろう。久しぶりに過去の自分の感情が沸き、そのフィクションに私ごと救われていた。この記事を書いている時に気付けてよかった。

やっと終えられる。この話の中にも、更に詳しく掘り下げなければと思うものもあるが、一旦ここで終わり。届きますように。


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