悩みのタネって本当はきっと
私はずっと戦っている。
わたし自身とずっと、
見合って見合って、はっけよい、はっけよい。
のこったの言葉はおりてこない。
ずーっと見合って見合って、はっけよいはっけよいの
睨み合い、睨めっこ。
私はわたしを相手に、力んで構えて気が抜けない。
いつしかのあの声も、最近また出てきた。
「お前なんて」「お前なんて」
悲しみたいわけじゃないのに、
苦しみたいわけじゃないのに、
でも悲しんで苦しんでないと許せないしわたしが
わたしに声かける。
「お前なんて」
そんななりに、悩みに悩んできたなかで、
今後も続く悩みのなかで、
その道のりに意味を持たせたくて建築しました。
今ひとまず辿り着いた休憩所。
悩みのタネって、結局願望なんだぁ〜。
願望って言葉だと、欲がニュアンスとして強い気がする。
もっとわたしの思いを的確に表すなら…
願望もとい…なんだろうか。
例えるなら、ただ泣いている。
か細い声で泣いていて、「わーん」じゃなくて、「ひーん」。
ひんひん言って、
涙は絶え間なくだばだば、じゃなくて、
つつつーっと、ぽろぽろと、溢れて溢れるだけ。
(あふれるとこぼれるって同じ字なの?!)
拭っても拭っても溢れてて、地団駄を踏むんじゃなくて
力無くへたり込んでいる。
うーん、そう、無力感とでも言うのか。でも、そう、
無力だ。悩みのタネは無力感の表れ。
力なく、へたり込んでただ泣いているだけの存在。
それが発する言葉はただひとつ。
「こうしたかった」
インナーチャイルド、言葉としては知っていたけど、
実際考えてもなかなかイメージが持ちにくかった。
でも、絵として想像したらなんか少しわかった。
悩みのタネって本当は、
これまでたくさん悩んできた
結果、
結局、
結論、
結びは
「こうしたかっただけなのに」
そう考えたら、意外と簡単な話だった、と私には
現時点で腑に落ちている。
何かに対して悩む時、わたしの傾向として
「できない」感が強い。(当社調べ)
「できない」が、
パターン①、「私にはできない」に変換され、
私の努力不足だ、私に望む権利など無かった、
等々私自身を傷つける。
パターン②、「〇〇のせい」に変換され、
あいつが悪いと他者を攻撃。
そして攻撃したことに対して「私のせいなのに」と
自己嫌悪し悪循環。
というのが分析の結果。
それはつまり、「こうしたかった」に帰着させられる。
それが高望みなのかとか、完璧主義とか、
一旦その辺りは置いといて。
悩みは永遠だ。思考そのものだから。
でも悩み続けることは辛い。しんどい。苦しい。
それを少しでも軽くするには、
何したかったの?って聞くとわかる気がする。
あれできない、これできない、私ができてない、わーん。
ってパニックになる自分。
発芽した芽が、茎が、葉が、
棘となって、延々と土壌、自分を責めて傷つける。
でも、何したかったんだっけ?って
タネ自体をよく観察したら、
「ああなりたかった」
「そうして欲しかった」
「こうしたかった」
がある。
そこがわかるとこういう肥料がいるんだなとか、
水やりの仕方変える?とか、
日照時間もうちょい調整するかとか、
そっちに芽が向く。
タネを照らせる一筋の光が差すには、
まだ自分で自由に操作はできなくて、
きっかけが必要だけど。
(これがいわゆる二次感情前の話でした。)