「わかりやすい」のいる場所はどこか
「自分が今、ただ『わかりやすい』だけのものを作ってしまっていないか、すごく不安になるときがあるんですよね」
自分の口からそんな言葉がこぼれた、下北沢のスープカレー屋さん。お皿に盛られたたくさんの具材から、その瞬間は何をフォークに刺したっけ。ただ覚えているのは、一緒にランチをしていた女性が、こちらの目を見て頷いてくれたことだけ。
「そうなんですよね。『わかりやすい』って入り口としてもちろん有効な手段だけど、それが全てじゃないっていうか。」
ひとしきり話が盛り上がったあとも、一人でこのことを考えていた。わかりやすくすることの功罪、みたいなことを。
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「わかりやすくすること」はもの作りのとても大事な機能のひとつだ。重すぎてその扉に手をかけることすら抵抗を感じるような、だけど重要な知識や考え、手法などたくさんのこと。全てにわたしたちは全力で取り組むことは難しい。だから「わかりやすく」する。
でも、ただ「わかりやすい」で、いいんだろうか。
世間にはわかりやすさを売りにした情報が溢れる。難解な名著をマンガ化した本もすごくたくさん見かけるようになった。かくいうわたしも、デザインやイラスト、iPadでのグラフィックレコーディングで、わかりやすく伝わることをいつも心がけている。
だけど、少なくともわたしは、「わかりやすい」がゴールにいてはいけないと思っている。いてほしいのは、入り口だ。
入り口でやさしくエッセンスを伝え、興味を持ってもらう。大きな渦のような「知らないなにか」に気づいてもらえたら、「覗いてみたい」「入り込んでみたい」と思うきっかけになるかもしれない。入り口で「これはわたしの知りたいこととは違いそうだな」と思って引き返すことももちろんあるだろう。
「わかりやすい」が担うところは、そういうことじゃないかと思うのだ。
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知識や考え、手法などをわかりやすくするとき、「わからないこと」「もっと深みがあること」を滲ませるように伝えていけたら、と思う。
「わかりやすい」に全てが詰め込まれているわけでもないし、伝えた人の主観も入っている。もし「わかりやすい」ものに触れてもっと知りたくなったら、自分自身の体を「わからない」の渦に飛び込んでもらえたら、それはすごく素敵なんじゃないだろうか。
やっぱり「わかりやすい」は入り口に。願わくばその先のもっと楽しく深い世界を知って欲しくて、たくさんの人たちがわかりやすくしているのだと思う。
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