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人として正常であることとは何か、改めて考える

はじめに

 こんにちは。
 ここ最近、政治家・著名人のスキャンダルを報ずるニュースが続いていますね。なぜこんなことをしてしまうのだろうとか、有名になることによる驕りがそうさせてしまうのかとか、少し考えればそれがリスクのある行為とわかるのにとか、諸々想像してしまいますよね。

 それはさておき、私はそれを他人に自信を持って言えるほど自分がまともな人間であると断言できないです。一応、会社員として社会的な営みを日々こなしており、家族として妻子もいるため客観的に見て社会的な信用は一定以上あると考えています。

 しかし、ふとしたときに自分の社会性に違和感を覚えるときがあります。気を抜いているとまともな人間でいられなくなるという感覚に襲われるときがあります。
 今回はそんな私が社会的な人間として如何に正常さを保つことに腐心しているかを記事にしたいと思います。そもそも、人間としての正常さを保つとか言っている時点ですでにまともじゃない気がしますが、それは別の記事で語ることにします。


正常さの定義

 正常性を保つということはどういうことかを語る前に、まずは人とのしての正常さの定義をしましょう。ここでいう正常さというのはその人が社会生活を送る上で社会や他者との摩擦のない状態を指すと考えます。具体的には以下と定義します。

  • 社会のルールを理解していること

  • 他人に害を及ぼさないこと

  • 自立していること

  • 持続的であること

社会のルールを理解していること

 ここでいう社会とは、世界、国という大きな括りではなく、地域性や自身が所属する組織に根差したものを指します。具体的にいえば自治体・会社・学校・友人関係などです。一言で云うとコミュニティですかね。
 
 自明なもので言えば、世の中の仕組みを理解する知能・知識・理解を指します。それは学校であったり親の教育であったり文化などで形成されます。その量は膨大であり、その全てを兼ね備えた人というのは基本的には存在しないですが、近代国家では義務教育という形で全国民に平準的に備え付けられます。その根底となるのは法律・条例・規則などのいわば我々個人の安全を確保する仕組みとなります。
 ここで問題になるのはそもそもそれを理解できる土壌にあるかです。理解しようというマインドもそうですが、生まれ持った環境やハンデがそれを許さない場合もあります。その場合は話が単純では済まないですが、社会にたいして摩擦がないという観点では無視できない要素でしょう。ハンデについては社会からの支援が必要になります。

 暗黙なもので言うと慣習・ルール・マナーでしょうか。明示的な仕組みよりは情緒的で厳格性に劣りますが、人の感情に近いところで作られており、案外社会生活を営む上での影響は大きいと言えます。端的に言えば、ルールから外れた人を見るのは多くの人に不快感をもたらすということです。例えば電車の中で脚を広げて座るとか、大声で電話する、あるいは歩き煙草をする等です。これらは法での拘束力は無いですが、それを平気でする人に対して多くの方は心の摩擦を感じますよね。

他人に害を及ぼさないこと

 言葉にすると何ら難しくない当たり前の定義だとは思いますが、私を含めてこれを厳守できている人間は案外少ないと思います。人は多かれ少なかれ他人に迷惑をかけて生きています。害にまで及ぶかどうかは程度の大小で決まると思っています。客観的に自らを振り返ることが困難な要素と私は考えます。それではどこまでが無影響、どこからが迷惑、そしてどこまでいってしまうとになるのでしょう。
 害とはそれを及ぼされた相手が通常の生活を営むことができなくなったものと私は定義します。それが元通りになるために必要な時間、コスト、手間が大きいほど、害が大きいと言えます。時にそれは刑事的な問題に発展します。多くの場合は法などによって保護されますが、それらは即時性に欠けるために被害を全くのゼロに抑えることができません。
そのため、私たちがひとりひとり人に害悪を与えない気遣いを有していることが正常であることの前提になります。

自立していること

 これついては親の保護を受けている子どもや介護を受けている人が問題だといっているのではありません。先の害と同様、程度によって表されます。自立には段階があると考えます。専門的なところで言えば、もっと細分化されると思いますが、私は主に下記の3つが自立を語る上で大きな要素と考えます。

  • 精神的独立

  • 経済的独立

  • 組織的独立

 精神的な自立は、いくつか段階を指しますが、子供が一定以上成長し自分で判断できるようになることや、あるいは親の保護から外れて一人暮らしを始めることなどを指します。つまり程度の差はあれど自身で生活ついて考えなければならない、考えないと生活がままならない状態を指します。

 経済的な自立は、社会人となり自分で稼げること、結婚して独立した本籍を持つことなどを指します。とはいえ、それを達成したとしても、先述した精神的な自立を果たしていないパターンもあります。(様々な事情はあるでしょうが)生活保護のような国や政府からの支援を受けてないことも経済的な自立を指します。

 組織的な自立は、それは会社であったり家族であったり国などから自立を指します。先に挙げた精神、経済よりもより高次な自立を指します。とはいえ、どこにも所属しないということはあり得ないため、これはどちらかというと親などに用意してもらったステージからの巣立ち、を指します。

 上記いずれも完全に達成していなかったとしても自ら考えて正しい判断ができる状態になっているということが条件になります。

持続的であること

 正常さというものは一定の恒常性を要求します。この持続性についての詳細は次項に譲ります。本記事におけるテーマとなる【正常さを保つ】とは持続的であることと同義であるためです。

正常さを保つと言うこと

 前項では正常であると言うことの定義を語りました。私は社会的に正常であると言うことはそれらを有すること、守っていること、そしてそれを継続していることが条件であると考えています。
 この中で特に大切な要素として持続的であることです。私は、正常であるということは一度達成すればそれがずっと固有スキルとして保持されるものではなく、研鑽をしていないと相対的に失われるものであると考えています。理由としては以下が挙げられます。

  • 世の中が変わること

  • 自分が変わること

世の中が変わること

 端的に言うとルールや常識が変化すると言うことです。それは時代がそうさせる場合もありますし、社会情勢がそうさせることもあります。また、自らが身を置く環境の変化もあるでしょう。昨日までの常識が翌日には非常識になることもあります。そこまで変化がないにしろ、長い目で見てずっと同じであること思うことの方がリスクがあります。

自分が変わるということ

 私たちは生きていく上で、さまざまな刺激を受けます。そしてその刺激は自らの中に変化をもたらします。例えば、周りに攻撃的な人が多ければ、自らも他のコミュニティの人と比較して攻撃的に変化しやすくなります。周りが高い水準で理知的な人が多く、会話をする上でそれを求めてくるコミュニティに所属すると、自身もそれに合わせて理知的になっていきます。それが何層にも積み重なって長い年月をかけて自分の変化をもたらします。自己研鑽による知識の堆積もそうした価値観の変化をもたらすこともあります。ゆえに普段関わらないコミュニティの人と関わった際に、良くも悪くもお互いがお互いの特異性に気づくことになります。

 つまり、上記のいずれか、あるいは両方の変化によって、これまで社会に順応していたあなたは世の中と自身の変化による相対性が発生し、お互いの乖離が発生することによって、社会に対する正常性を失うことになります。それを異常性と本記事では呼称します。

異常性の種類

 社会との乖離、つまり異常性にも種類があります。原因の良し悪しを一旦置いておいて、私はそれを下記の通り定義します。

  • 知識・知能・教養の違いのよるもの

  • ルール・常識の違いによるもの

  • 客観性の喪失によるもの

知識・知能・教養の違い

 所属するコミュニティとの相対性に依存します。具体的に言えば、自らが現在有している教養や知能にあったコミュニティに属しているかどうかです。このパラメタがコミュニティと自身の高低の差がどちらに傾いているかはともかくとして、それが大きく乖離しているとお互いに摩擦を生みます。
 なお、知識や教養はあとからある程度補えますが、どちらかといえば乖離を埋めることを阻害するマインドの差です。残酷な話ですが、遺伝による知能の差も埋めがたい乖離を生むことがあります。
 また、教養の高い人が教養の希薄なコミュニティに属することも不幸を生みます。

ルール・常識の違い

 ルール、常識はコミュニティによって当然異なります。コミュニティという無形の概念によって固定されたルールや常識はあとから個人の力で変更することが難しいものです。故にほとんどの場合は順応するか離れるかのどちらかを選ぶより他ありません。たまにルールをぶち壊すレベルのカリスマとも呼べる改革者がそのコミュニティに現れることはありますが、それは例外と考えるべきです。そういった破壊が良い結果を生むとも限らないという点にも注目したいです。

客観性の喪失

 すべてに通じますが自らの社会性の乖離に気づくための能力を失うことを指します。
 自分の中に疑いの目を持ち、自らを定期的に検査するという謙虚さが必要です。日常の中で仲間や友人や利害関係者からの指摘や態度で自分が社会からの乖離をし始めていることに気づかねばなりません。それを受けて定期的に自らの思考を是正します。
 ただ、私を含めてほとんどの人はそのセンサともよべる客観性を維持したり、失わせないことに相応の努力や苦痛を伴います。場合によっては自己否定を伴う努力になるためです。

以上の要素から、私は社会性を保つ、つまり正常であるということは実は一定以上のハードルがあると考えています。

どうやって正常性を保つか

 前項まででは、人がどうやって一度獲得した正常性を失うのか説明してきました。私たちは何もしなければ原則、正常性を失っていきます。私が度々使う【エントロピー増大の法則】による秩序の破壊の法則に即していると考えます。世の中のものは、有形・無形問わず一度確立した秩序が崩壊に向かい、消失は避けられないものです。我が国の古典の言葉を借りるなら、【盛者必衰】【諸行無常】でしょうか。ひとは意識をしないと正常であり続けることができない仕組みの中に生きています。
 なお、エントロピーの増大については以下の記事がわかりやすいです。日常会話に用いると何だこいつ? と思われること受け合いです。

 それでも私たちは社会において人並みの生活をするために一定のリソースを割く必要があります。それを実現するために私たちができることを以下の通り挙げます。

  • 世の中の変化を知る

  • 流行を知る

  • コミュニティのルールを知る

  • ロールモデルを見つける

  • 客観的であることを考え続ける

世の中の変化を知る

 これまで正常性というのは社会性との乖離がないことであると説明してきました。そのため、私たちは社会というものをある程度、正確に理解しておく必要があります。
 社会を知るための手段はいくつかありますが、まずは教育・学問にあります。義務教育に始まり、高等教育、社会人になってからの自己研鑽により精度の高い社会像を知ることが出来ます。
 また、世の中の変化をするということと矛盾するかもしれませんが、普遍的に変わらない本質を知ることも大切になってきます。中長期的な軸や基準を持つ、そして変化するものを見極める。すべてが変化すると考えてしまうとその変化を知るための情報収集が膨大になり、気が狂ってしまいます。変わらないものと変わるものを知ることが、変化を知ると言うことに対して最低限のリソースで済むための羅針盤のようなものになります。 

流行を知る

 社会性よりも流動性があり、短期間で変化するものを指します。流行というと浅薄な印象を持つ方も多いですし、私もかつてはそう考えていましたが、全く流行に無知というのも広い世代の方と一定以上の深さの交流をするために不可欠です。
 また、流行を追うというのは新しいテクノロジや価値観に触れることと同義であり、自身の見識のアップデートに繋がります。そうしたことを諦めた状態というのが社会に置いてかれた状態であり、老害と呼ばれる状態の一要因になると考えます。新しいものを不用意に恐がることは社会性の喪失を加速させる最大の要因になると考えます。

コミュニティのルールを知る

 所属しているコミュニティはそれぞれ独自性があります。コミュニティの善し悪しはあると思いますが、自身が所属しているコミュニティが正解としている考え方を知る必要があります。ルールという言葉で表されますが、ここは単純にルールを守りましょうということだけではなく、なぜそのルールが決められているのか、という背景を理解することに努める、ということを言いたいです。
 ルールの背景を知るということは、そのルールが本当に必要かどうかを疑うという面もあります。なぜならそのルールのせいで、コミュニティの外との社会性とコミュニティの倫理性が乖離していることに気づけるからです。ただ、それに気づいたときに真っ向に指摘をするというのは得策ではないと考えます。そのとき、私たちに出来るのはそっとそのコミュニティから離れるか、あるいはコミュニティのことを思うなら、発言権を獲得してから改革を行うことでしょう。その改革は自身が一定以上の倫理性を持っていると客観的にはかれるときにだけ行うべきですが、それを証明することは困難です。故に慎重に事を運ぶ必要があります。基本的には(コミュニティを変えるなどということは)やらない方がいいと私は考えます。

ロールモデルを見つける

 概念を頭の中だけで知るだけであればそれほど難しいことはありません。それを応用的に実践することが難しいのです。理論と実装には大きな溝があります。様々な試行錯誤を経て実用に耐えうる方法に至ります。あらゆる面に対して自分でそれを行うことは現実的ではないです。しかしそれを行わずに方法論を知る手段があります。それがロールモデルを見つけるということです。
 社会性との乖離の無い状態というものを体現した人というのは、それほど低くない確率で出会うことが出来ます。そうした人を見つける嗅覚は必要ではありますが、理論から実装を試行錯誤するよりは、ロールモデルを見つける方が手間も時間もかかりません。ロールモデルをみつけたら、その人のまねをしたり、その人自身と対話することで社会性に対する正しさの理解が進みます。

客観的であることを考え続ける

 人は皆どこかしらにおいて主観的です。いや厳密に言うと主観か客観か自ら正確に知ることは原理的に出来ません。なぜなら客観的だと思うその思考も主観的であるということを否定できないからです。これは悪魔の証明に近いものと私は考えています。悪魔の証明とは端的に言うと【存在しないということをないと証明できない】ことを言います。

  それに対して私たちに出来ることは、常に自身に対して批判的であるということです。これは自らの存在を否定するということを指しているわけではありません。その時々に自らが出した仮説に対して反証を立てろということです。これはコンサルティング領域における考え方の一つで、確証バイアスを避ける手法の一つとなります。確証バイアスは情報収集を行う際に、自身の中で決まった答えになるような偏ったエビデンスを探してしまう行為や習性を指します。当然そうして集められたエビデンスは客観性を持つという目的を達成できないものとなります。
 確証バイアスについては以下の記事が詳しいです。

 仮説と反証については以下の記事が参考になります。

おわりに

 私がこの記事を書こうと思ったきっかけがここ最近関わり始めた人と私とで常識や考え方の違いを感じたからです。おそらく私がここまで語ってきた社会性と乖離状態今まさに陥っているものと考えています。そう思った故に改めて社会と摩擦のない状態とは何か、正常性とは何かと見つめ直したいという思いからこの記事を書かせていただきました。
 私は自己研鑽のためにインプットとアウトプットを日々続けております。noteに記事を書くというのはその一環となります。
 普段の生活で見かけるふと見かける不可思議な行動をする人々はそうした世の中の変化についてこられなかったかつて正常だった人のひとつの状態なのかも知れません。そうした人々を忌避するのは簡単ですが、それを見て私たちができるのは自らを疑うことであり、振り返ることなのだと思います。
 この記事が複雑化した現代を生きる上でひとつの参考になることを祈っています。

以上


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