サッカーが与える絶望と希望。ティトー、ユーゴ内戦、そしてオシム 9/9
#9:オシムが蘇らせた、サッカーという名の希望
■ティトー、ユーゴ内戦、そしてオシム
語弊のないように断っておくと、ヴェンゲルはネガティブな文脈で発言したわけでは全くない。むしろこの話題が出たのは、サッカークラブやスタジアムが、いかなる役割を果たすべきか、今はやりの言葉で言えば、地域コミュニティにおいて「共創」のハブになる必要があるというテーマを、ホテルでディスカッションしているときだった。
サッカーが持つ社会的な機能は、むろんユーゴ建国の父であるティトーも熟知していた。彼は民族主義を封印し、かりそめの愛国心とアイデンティティをユーゴに与えるために利用しようと試みている。だがこの構想は破綻。逆に民族間の対立を刺激し、戦争をもたらす一つの引き金になり、多くの人々に深い傷跡を負わせてしまう。
だが後にユーゴでは、ティトーとは異なる形で、サッカーを社会のために役立てようとする人物が現れる。それがオシムだった。彼はサッカーを通して絶望ではなく希望を、憎しみではなく融和をもたらそうとした。サッカーの存在意義とチカラを、もう一度蘇らせようとしたと言ってもいいだろう。
■「W杯で優勝したなら、戦争は避けられたかもしれない」
その典型例が、サラエボ連盟を正常化させるための試みだったわけだが、オシムはユーゴ代表監督時代にも、実は最後の最後までサッカーに希望を託そうとした。当時、代表チームを支えていたエディン・ジェコは、僕が英国の友人と実現させた独占インタビューで、次のように証言している。
「オシムは僕を昔からいつも褒めてきてくれたし、かけてもらった言葉も沢山ある。でも多分、僕の印象に一番残っているのは、1990年のW杯で彼が率いた、偉大な旧ユーゴスラヴィア代表に関する会話だったと思う。オシムは会話の中で『もしあの大会で自分たちが優勝していれば、戦争は避けられたかもしれない』と言ったんだよ・・・」
■僕たちの中に棲む、悪魔と天使
ユーゴの事例は、いくつかの教訓を与えてくれる。
まずはサッカーをはじめとするスポーツの両義性だ。人々を夢中にさせ、笑顔を与えるはずのものが社会への絶望と憎しみを生み、ひいては戦争へと駆り立てる。これほど悲しむべきことが他にあるだろうか。
丸いボールには何の責任もない。サッカーを憎しみを掻き立てる道具に変えるのも、あるいは希望を灯すために用いるのも、同じ人間である。僕たちは自分の心の中に、天使と悪魔が棲むことを認識しなければならない
ユーゴにまつわる話は、ヨーロッパにおける民族問題の難しさ、澱(おり)のように沈殿した憎しみと不信感を払拭する難しさも物語る。そこには単純な善悪で割り切れない世界が広がっている。
たとえば1998年に勃発したコソヴォ紛争の際には、NATOが軍事介入。セルビアの首都であるベオグラードを爆撃し、強制的に部隊を撤退させたこともあり、セルビアは世界の多くの人々から白眼視された。この一件は、ストイコヴィッチがJリーグの試合でTシャツ姿になり、NATOに抗議を行ったことで覚えていらっしゃる方も多いと思う。
■単純明快な正義とモラルの危険性
だが実情はもっと複雑だ。セルビア人勢力はボスニアの独立紛争でも批判の矢面に立たされたが、ボスニア側は世論を引き寄せるために、広告代理店を利用して被害者イメージを強調したからだ。この模様は、高木徹氏の著書に詳しい。また、木村元彦氏が指摘されているように、コソヴォでは紛争終結後も、セルビア系民間人の暴行や拉致、虐殺も多数起きてきた。
道義心に駆られて、手を差し伸べようとするのは間違っていない。その気持ちをなくせば、人は人でなくなってしまう。だが素朴な正義感や価値観に基づき、無理やり問題を解決しようとするのはあまりにナイーブだと言わざるを得ない。この種のアプローチがいかに危険かは、湾岸戦争後の中東情勢や、アフガニスタンの事例などを見れば、すぐに理解できる。
■ユーゴとイスラエルに見るアナロジー
幸い日本には、ユーゴほど極端な事例は起きてこなかった。『ウルトラス』を読まれても、なんとなく縁遠く感じられた方もいるだろう。それでも『ウルトラス』を出したことには、意味があったように思う。
著者のジェームスは、イスラエルの複雑さを理解する際に一番有効だったのが、ウルトラスの意見を聞くことだったと述べている。
これはユーゴ事情にも当てはまる。かくも複雑な歴史や事情を理解する上で、サッカーがきわめて有用なツールになっているのは明らかだ。
■変えることは、「知る」ことから始まる
この連載の冒頭で記したように、僕はユーゴの事情を知れば知るほど、ある種の無力感に襲われそうになる。ユーゴに限らず、世界の他の国々やこの日本でも、現状を変えていくのは容易ではない。巨大な国家や社会経済システムの前では、僕たちはあまりにも小さく、そして無力だ。
だが現実を知ろうとしなければ、世界を変えることなど、なおさら不可能になってしまう。「知ること」は決して無駄ではない。
『ウルトラス』やこの記事が、「知りたい」と願う人の一助になれば幸いだ。ユーゴで起きた出来事は、僕たちに様々な教訓と戒めだけでなく、勇気も与えてくれる。オシムのように、忌まわしい過去をすべて踏まえた上で、あえてサッカーに再び希望を託し、ボスニアの現状を変えていった人間がいることも、思い出させてくれるはずだ。(了)
(文中敬称略)
(写真撮影/スライド作成:著者)