サッカーが与える絶望と希望。ティトー、ユーゴ内戦、そしてオシム 6/9
#6: ボスニアを襲った新たな危機
■ジェフユナイテッド、そして日本代表の監督へ
以降の歴史はご存じの通りだ。
オシムはユーゴ代表とパルチザンの監督を辞した後、ギリシャのパナシナイコス、オーストリアのシュトルム・グラーツを経て、2003年にジェフユナイテッド市原・千葉(現:ジェフユナイテッド千葉)の監督に着任。「オシムチルドレン」と称された選手たちを鍛え上げ、格上のガンバ大阪をナビスコカップで下してみせる。
さらには代表監督にも起用され、日本サッカーそのものの躍進と成熟を図っていく。惜しくも脳梗塞のために道半ばにして指導者としてのキャリアに終止符を打ったが、 「日本サッカーの日本化」というコンセプトは、今も強い影響を与え続けている。
■国際大会に復帰し始めた旧ユーゴ諸国
一方、旧ユーゴ圏では独立した共和国が戦禍を乗り越え、国際大会に代表を送り込み始める。特に98年のW杯フランス大会予選からは、クロアチア、スロベニア、セルビア&モンテネグロ(当時はユーゴスラヴィア連邦共和国)、ボスニア、マケドニアなどが、すべて主要な大会に名を連ねるようになった。ところが新たな時代の流れの中で、再び国際大会から締め出されかかった国がある。それがボスニアである。
もともとボスニアは、ユーゴの崩壊と共に勃発した紛争で、最も大きな被害を受けた国の一つだった。たとえばスレブレニツァという地域では、後に戦争犯罪人として終身刑に処されたセルビアの軍人、ラトコ・ムラディッチが率いた部隊によって8000人もの人々が虐殺されている。
大きな被害を受けたのは周囲を包囲され、絶えず狙撃や銃撃、爆撃にさらさされたサラエヴォも同様だ。事実、戦争終結から10年以上が経過しても、市内には銃弾の穴が残る建物が無数に並び、目抜き通りの歩道には、いたるところにバラを模したような赤いマークが残っていた。これは市民が命を落とした場所を示している。オシムがサラエヴォで率いていたクラブチーム、ゼレスニチャールのスタジアム周辺は特に攻撃が激しく、スタンドは完全に焼け落ちて残骸と化した。
■紛争が社会と人々の心に残した深い傷
しかも語弊を恐れず述べるなら、ボスニアは今でも完全に平和が訪れたとは言い難い。たとえばボスニアは、独立の際にセルビア人勢力が独自に建国した「スルプスカ共和国」を抱えたままの状態が続いている。
現にボスニアを初めて訪れた際、地元の人からは「スルプスカに立ち入るな」と何度もくぎを刺されたし、空港にはNATOの兵員輸送用の軍用機も常駐していた。痛々しい戦争の傷跡と「硝煙の匂い(キナ臭さ)」は、市内のいたるところに色濃く残り続けていた。
■ボスニアを襲った新たな危機
ボスニアの実情は、サッカー界にも深い影を落とした。国内ではリーグ戦が開催されていたが、肝心要となる統括団体(ボスニア・ヘルツェゴヴィナサッカー連盟)はセルビア系、クロアチア系、ムスリム系の三派から構成されており、連盟の会長も各派を代表する3人が順番に務めるという異様な状況になっていたからである。
この事態を重く見たFIFAとUEFAは、連盟の会長を1人にするように勧告を行っていた。ところが連盟側は「正常化」を拒否したため、2011年4月1日付けでボスニアの資格を剥奪し、国際大会への出場を禁じられてしまう。
■オシムが下した、命がけの決断
ここで立ち上がったのがオシムだった。オシムは会長を一本化するための「正常化委員会」の座長に就任。諸派をまとめつつUEFAやFIFAと交渉を重ね、ボスニア代表を国際舞台に復帰させるべく粉骨砕身した。
当時の模様はNHKのドキュメンタリーでも紹介されているので、機会があればご覧いただきたいが、解決への道は困難を極めた。そもそもオシムは半身に麻痺が残っていたし、年齢を考えれば決して無理はできない。何より事と次第によっては、会長一本化に反対する勢力から脅迫を受けたり、命の危険にさらされる危険さえある。正常化委員会の座長を務めるなど「火中の栗」どころか、「火中のダイナマイト」を拾う行為に等しい。
現にオシムに近しい人々は、本人の意志を最大限に尊重しつつも、その行く末を本気で案じていた。
ここまで断言できるのには理由がある。僕はその数年前からライターの同僚である田村修一氏、そして写真嫌いのオシム自身からも絶大な信頼を得ていたカメラマンの杉山拓也氏(文春写真部)とチームを組み、現地取材を開始。オシムが正常化のための交渉をしていた最中も、まさにボスニアでその様子を目の当たりにしていたからだ。
(文中敬称略)
(写真撮影/スライド作成:著者)