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出涸らし
今日も30分タイマーを回して雑に日記を書く。
「忙しい時ほどいい曲が書ける」というよくあるミュージシャン特有の抽象的な事象の解像度を上げてみると、忙しい時というのは無意識下のインプットが多い時かつ、時間が確保できないという切迫感から過集中を生むことができている状況だからということなんだと思う。今の私はまさにそれだ。というか、常に納期が迫っていて曲を書かないといけない状況にある。いつだって私は善意の解釈を積み重ねて人生を前に進めている。
幼い頃からロマンティックで色っぽいものが好きで、早く大人になりたい、もっと老けたいと思って生きてきた。親が高齢かつ母性をあまり知ることなく育った反動だろうか、スタンダールやアラン・バディウの著書をどれだけ読み込んでも愛の定義はぼんやりしたままで、甘えることも下手くそなまま、愛の不可能性みたいなものを曲として書き続けて34歳になった。
私の描く物語には必ず資本主義社会の中で生活している男女が登場し、2人はそれぞれ違う事柄に疲弊していて、どこかすれ違いながらも相互に折り合いをつけてうまくやっていこう模索している。高いものを食っても味がしない、都市生活の空虚さを嘆く態度自体を楽しむような皮肉屋の女か男しか出てこない。
パオロ・ソレンティーノの映画に出てくるような、更年期を過ぎてもなお日夜パーティーに興じては孤独を感じ、女を抱き、男と口論し、築き上げたありあまる富をゴミのように消費しながらその消費を虚しく思うような老人が見ている景色。私がまだ失うものが何一つなかった10代後半から20代前半の頃、ひどく世話になったかなしい大人たちが見ていたそういう景色を今でも私は愛し、同時に軽蔑し、哀れみ、そういう態度に孕んだ空気や匂いからずっと抜け出せずにいる。
残酷な、美しい出涸らしだと思う。同時に、私の感性が成長していない証明でもある。次にどんな経験をしたら、この世界から抜け出して別の景色を描けるようになるんだろう。
根津美術館に行って、静かな庭園を眺めながらくそ高い抹茶を飲みたい。そのあとrick owensの路面店に行ってミュータントのようなrick像に敬礼し、無愛想で美しい店員たちとおすすめのポストパンクバンドの話をした後、薄すぎるインナーを買って帰りながら後悔したい。あの頃の自分に戻りたいとは微塵も思わないが、目一杯背伸びしていた当時の生活を、今大人になった自分がもう一度やったらどんな気持ちになるのか試してみたい。