私のしたいことはエゴ?それとも正当?倫理的思考とは(3)権利説
正当な理由があるのだから
おばあさんに席を譲るというのは、割と分かりやすいようで、いざとなると、恥ずかしいからという理由の他にも、できないことがあります。私は目まい持ちなので、ほんのちょっとではあっても苦しいとき、おばあさんがいても簡単に判断できないようなときがあります。
そんなときでも、周りの人たちがみんな「そんなときでも若者よ、おばあさんの苦痛に比べたら大したことない、席を譲りなさい」という場合、「私は軽い目まいがあるから……」という主張は、「言い訳」「エゴ」と見なされる可能性が、大いにあります。
そんなとき、どんなにいたたまれなくても、「私はこの席に座り続ける正当な権利があるのだ」と考え、譲らないことを選ぶこともできるでしょう。
こうしたことが適切な例かはわかりませんが……倫理的思考の4つ目として、その人に(あるいは自分に)権利があるから、その行為は正しいと考える「権利説」をあげることができます。
権利説で考えるための前提として、いろんな考えがあると思いますが、「その権利を行使する正当な理由がある」ということは、権利説にもとづくものなら、どんな考えでも、おおむね前提となるのではないでしょうか。
権利説は「普遍的、かつ、現実的」をめざす
権利説は、どんなときでも正当な権利行使を倫理的とみなす、という点で、普遍的な考えと言えます。
妊婦さんは、どんなときでも、おばあさんに席を譲る必要はない。これは普遍的と思えますよね。他の人が譲るべきなのですから、妊婦さんは「おばあさんに席を譲らない権利」があると主張できるように思えます。
また、権利説は、現実との調和を図るものでもあります。
妊婦さんが席を譲ろうとして転倒してしまい、流産するようなことになれば、それはすなわち社会全体の損失といえます(少子化著しい日本のみなさんはガッテンしていただけるでしょう!)。
そんな現実から考えても、「妊婦さんはおばあさんに席を譲らない権利(誰か別の人に譲らせる権利)」は、正当なものといえます。
そう考えると、「結果オーライでいいよね」という、人間性については深く考えないお気楽な結果説と、「心から義務を果たすもののみが正しい」という、やや融通の効かない動機説との、調和をとる、あるいは折衷を図る、そんな倫理的思考が権利説、とも言えます。
下の図のような込み入ったことについての考えでも、権利説は、結果説・義務説、双方に配慮した理由で、その正当性を主張できます。
(もちろん、共感説でも、上の考えにしっかりした理由を下すことはできるはずです。ここでは省略しますが、考えていただくとうれしいです)
「正当な理由」であっても、権利はどこかで衝突する
しかし、こうした考えでもって、すべてを押し通すことは難しそうです。何となく分かりますよね。ただ、何となく、では困るので、しっかり考えていきましょう。
権利というのは、どこかで必ずといっていいほど衝突します。
あなたが生徒なら、授業中、「あ、いいフレーズが思いついた! 楽譜は書けないから、ギターで弾いて録音しよう」と思って、そうする権利があると思っても、「先生の授業をする権利」「他の生徒の授業を聞く権利」と衝突します。
ギターを弾く権利は、家に帰ればもちろんあります。教室でも、放課後なら、文句を言う人もいるかもしれませんが、授業中よりは認められる可能性は高いです。しかし、授業中は、他の権利と衝突し、権利を行使する正当な理由も「弱い」ため、認められないでしょう。
やや極端な例、と思われたかもしれませんが、権利行使の理由の「正当性」は、「いつ」「どこで」「どんなときも」正当とはいえないおそれが大きいのです。
そもそも、「正当」かどうかを判断する基準の「あいまいさ」を見過ごすこともできません。
「高校生は、そんなことをしてはいけない」=「高校生は、そんな権利行使できない」というのは、かなりあいまいです。
それは、「高校生は、大人と違ってわずかな時間しかないのだから、そんなことで時間をムダにすべきではない」という理由だったと、あとで分かることもあります。
ただ、大人になって何十年たった今でも、「高校生のぶんざいで、そんなことするなんて、生意気だ」という理由としか思えない、そんなことも、たくさんありますよ、私には。
正当さの判断は結構あいまい、これは分かっておきたいところです。しかし、そうした基準で正当とされることも、少なくないのです。
権利の重さを量るひとがいて、少数派の権利が守られる
そう考えると、わたしだけが唱える「正当性」も、社会全体が唱える「正当性」も、それぞれ「あいまい」、ということなので、「社会全体のあいまいな『正当性』で、わたしの権利行使を妨げないで!」という意見が出るのも、もっともです。
「高校生のぶんざいで、会社なんか作るな!」というのは、たとえ多数意見だったとしても、その正当性はかなりあいまいであり、権利行使を妨げるような理由になるとは思えません。
しかし、こうしたことで、様々な少数派、マイノリティの人たちの権利行使が妨げられてきたことを、十分理解する必要があるのではないでしょうか。
裁判所は、こうした少数派、何なら全世界でたった1人の権利行使を、倫理的にも(もちろん法的にも)正しいと認めてくれる場所です。
裁判所という場所や、裁判官という職業が担っていることは、衝突している2つの権利(「同性婚をする権利がある」VS「同性婚をさせない権利がある」)について、それぞれの正当性の主張から、第三者的に慎重かつ公正な思考によって、それらの権利が行使できるかどうかを判断し、そのことを判決などによって示す、いう役割です。
こうしたことから、
国会・議会が「少数の独裁者によって、多数派の権利行使を妨げられないようにする場」であるのに対し、裁判所は「多数派の意見から、少数派の権利行使が妨げられないようにして、少数派の権利や利益、ひいては尊厳を守る場」である、と言われたりしているのです。
お話が法学関係のほうに行ってしまったのは、権利説が、結果説・義務説に比べ、より現実のほうを向いているから(結果説より現実主義というのは、意外と思われる人も多いと思いますが)です。
このように、
倫理的にも、かつ、法的にも、正しい行為について考える手段である点から、権利説による倫理的思考は重要なものといえます。
しかし、その際には、権利を主張するときにつきまとう理由のあいまいさと、権利と権利が衝突することの必然性について、考えておく必要もあるといえるでしょう。
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